触れなかった手の、その先
彼女は、よく笑う人だった。
明るくて、元気で、でもどこか強がりで、夜になると急に声のトーンが落ちる。
甘えん坊で、たまに闇みたいなものをこぼすけれど、基本的にはとても素直で、いい子だった。
遠距離になってから、時間はゆっくりとずれていった。
物理的な距離よりも、感情の距離のほうが、ずっと測りづらかった。
彼女が泣いた夜があった。
理由ははっきり覚えていない。
仕事のことだったか、将来のことだったか、あるいは、ただ寂しかっただけかもしれない。
そのとき、私は彼女にキスをした。
それが、たぶん、恋人として一番“恋人らしい”ことだった。
でも、それ以上はしなかった。
できなかった、のほうが正しい。
彼女は無邪気で、まるで娘みたいに見えてしまう瞬間があった。
守りたいと思う気持ちと、踏み込んだら壊してしまう気がする感覚が、いつも同時に来る。
そして何より、もし手を出してしまったら、どこまで行ってしまうのか分からなかった。
それは欲望の暴走ではなく、
むしろ、引き返せなくなることへの恐れだった。
だから私は、距離を保った。
理性を選んだ。
大事にする、という言葉の裏に隠れて、踏み込まなかった。
その結果、彼女は離れていった。
「もう無理だと思う」
電話口の彼女は泣いていた。
その声を聞きながら、私は何も言えなかった。
遠距離の間に気が変わった、と彼女は言った。
たぶん、それは嘘じゃない。
でも同時に、それは「生きるために必要だった変化」だったのだと思う。
私は彼女を傷つけなかったかもしれない。
でも、彼女が欲しかったものも、与えなかった。
それが正しかったのかどうか、今でも分からない。
もしあのとき、手を伸ばしていたら。
もしあのとき、欲していると伝えていたら。
未来は違ったのかもしれないし、もっとひどく壊れていたかもしれない。
答えはない。
だから私は今でも、ときどき考える。
あれは、臆病だったのか。
それとも、誠実だったのか。
時間が経った今、彼女の幸せを願える自分がいる。
どんな形であれ、楽しく生きていてくれたらいいと思う。
それが、あのとき触れなかった手の、せめてもの続きのような気がするから。
分からなかったことは、分からないままでいい。
あの恋は、答えを出すためのものじゃなかった。
ただ、人を大切に思うとはどういうことかを、
身をもって教えてくれただけだ。
