『私だけマニュアル未配布(仕様通り)』第1話

朝だった。

出社して、席に座って、パソコンを起動する。

この辺までは世界は親切だ。

ログイン手順は書いてあるし、パスワードの条件も明確。

「八文字以上」「記号必須」「三か月ごとに変更」

厳しいけど、誠実だ。

間違いようがない。

私はこういうのが好きだ。

理由が書いてあって、やることがきまっているやつ。

村上判断。

25歳

社会人3年目。

業務調整課所属

業務調整課というのは、

「調整」という言葉がすでに便利すぎて、

何をやっているのか誰にも説明できない部署だ。

トラブルの一歩手前とか、

責任の所在が不明な案件とか、

マニュアルに載せそびれた仕事が、大体ここに集まる。

私はそこで、

3年目の社員として

「まあまあ使えるが、ちょっと扱いづらい人」

という立ち位置にいる。

評価は普通。

給料も普通。

昇進の話は出ない。

怒られもしない。

つまり社会的にちょうど見えにくい。

そんな私の一日は、

たいてい一通のメールから始まる。

今日もそうだった。

【共有】

本日午前中、例の件について各自対応お願いします。

空気を見て、適切に判断してください。

空気を見て、適切に判断。

この会社で一番多用されている動詞だと思う。

「見る」と「判断」

どちらも、方法は書いていない。

「例の件」が何なのかは書いていないし、

「各自対応」の”各自”が誰なのかも分からない。

判断基準に至っては、

もう性格診断の領域だ。

私はメールを3回読み返した。

なにも増えない。

過去のスレッドも確認する。

何もない。

昨日の会話を思い出す。

心当たりは3つほどある。

どれも「それっぽい。」

どれも「違う気がする」。

つまり、

全部が候補で、全部が地雷。

隣の席の同僚は、すでに作業を始めていた。

キーボードの音が軽い。

迷いがない。

この人は多分、

「正解ルート」に乗っている。

「あのー」

声をかけると、同僚は画面を見たまま返事をした。

「例の件って、どれですか」

一瞬、世界が止まった。

正確には、

説明という概念だけが止まった。

同僚の指が止まり、

一泊置いてから動き出す。

「例の件は……例の件だよ」

成る程。

自己完結型の説明だ。

「どのくらいまでやればいいんでしょうか」

「普通の範囲で」

普通。

今日も元気だ。

「普通って、具体的には」

同僚はようやくこちらを見た。

困った顔。

悪意はない。

ただ、説明する訓練を受けていない顔だ。

「……まあ、空気見て」

空気。

ずっと見ている。

見えていないだけで。

会話は終わった。

同僚は仕事に戻る。

彼女は悪くない。

この世界では、分かっている人がただしい。

問題は、私だ。

私は、

・言われたことはやる。

・理由があれば納得する。

・正解が一つなら迷わない。

そういう人間だ。

逆に言うと、

・正解が共有されない

・理由が伏せられる

・空気だけで判断しろ

この3点がそろうと、

急に処理が重くなる。

名前に「判断」とは言っているが、

判断材料は支給されたことが無い。

これはもう、偶然ではない。

仕方がないので

私なりに「例の件」を特定する。

一番可能性が高いのは、

昨日持ち越された取引先対応。

グレー。

前例曖昧。

だから「空気を見ろ」になる。

資料を開き、

過去ログを漁り、

一番爆発しなそうな選択肢を探す。

時間はかかる。

でも、判断できる。

動く。

メールを送り、

調整を入れ、

誰にも怒られなさそうな場所に着地させる。

派手な事はしない。

目立たたない。

とにかく炎上しない方向へ

終わった。

上司が後ろを通りがかる。

「村上」

「はい」

「例の件、やった?」

「はい。たぶん、このあたりだと思って対応しました」

上司は少し考える。

考えているが、

内容は読んでいない可能性がたかい。

「まあ、いいんじゃない」

でた。

万能評価ワード

「次からは、もう少し普通にやってくれると助かる」

普通。

本日三回目。

「わかりました」

分かっていはいないが、

ここで聞き返すと

別の案件が生まれる。

上司は満足そうに去っていった。

説明はない。

補足もない。

「まあ、いいんじゃない」だけが残る。

周囲を見ると、

同僚たちはもう次の仕事に入っている。

何事もなかったかのうように。

たぶん、今日の判断は正解だったのだと思う。

怒られていない。

それがこの職場の合格ラインだ。

ただ、一つだけ分からない。

私が今やった判断は、

最初から決まっていた正解だったのか。

それとも、

運よく地雷を踏まなかっただけなのか。

確認方法は、ない。

聞けば「察して」と言われ、

聞かなければ「普通そうする」と言われる。

つまり、正解は非公開、

間違いだけは全体共有。

パソコンの画面に、

次の業務連絡が表示された。

【共有】

午後の件も、各自よろしくお願いします。

例の件、第2ラウンド。

私は一度だけ深呼吸をして、画面を閉じた。

マニュアルは今日も、

存在感だけを残して配布されていない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日記

前の記事

神経痛と無神経な私New!!
日記

次の記事

何かと小説New!!