第50話 制圧(勝とうとしないという選択)part2(A4正式稿)


駅前の喧騒から一段ずれた路地に入った瞬間、音が「一枚」薄くなった。静かになったわけじゃない。車の走行音も、遠くの踏切も、誰かの笑い声も残っている。ただ、全部が同じ距離に並べ替えられている。手を伸ばせば、どれでも掴めそうな位置にある。そういう整理のされ方だ。
「……うわ。今日の世界、親切を履き違えてるな」
愚痴は返ってこない。返ってこないのに、独り言だけはちゃんと届く。届いてほしくないところにだけ届く。そういう日だ。
ポケットの中で、布がわずかに擦れた。黒い手袋。薄くて軽くて、普段なら「ただの持ち物」みたいな顔をしてるくせに、こういうときだけ存在感を主張してくる。
前方の空気が、ひとつだけ凹む。
視界の端が、遅れて反応する。反射が遅いんじゃない。反射する前に、もう答えが置かれている。答えに目が追いつく。
路地の奥、ガードレールの影から、女が出てきた。
派手だった。服じゃない。立ち方が派手だ。中心に立つことに慣れている。自分が画面の真ん中にいる前提で世界を見ている。歩幅が、常に一歩分だけ大きい。誰かの「間合い」を最初から踏み潰す種類のやつだ。
「やっと来た。遅いじゃん」
声が軽い。軽いのに、刺さる。笑っているのに、優しくない。楽しそうなのに、救う気がない。口調のすべてが「勝っている側」のテンションで作られている。
「……え、何。ナンパ? この状況で?」
「それ、面白いと思って言ってる?」
「面白いと思って言ってない。怖いときは口が勝手に滑る。俺の仕様」
女は肩をすくめた。大げさに。舞台の上の動きだ。見てる人間がいる前提の所作。実際、いる。いる気配がする。視線の数が多い。ここは路地なのに、観客席みたいな圧がある。
女の腰のあたりで、金属が鈍く光った。銃。未来製の輪郭。デザートイーグルみたいな「大きさの暴力」を、わざと見せている。
「ねえ。手袋、持ってる?」
いきなり核心を踏まれた。隠してるつもりはない。でも、相手が当然のようにそこに触れてくると、胃の奥が少し冷える。知られている、というより、最初から「そういう条件」で配置されている感じがする。
「持ってるよ。だから何? 今、手袋で拳銃止められる世界だっけ?」
「止められるかどうかじゃないよ。見せて。使って。お願い」
お願い、の言い方が軽すぎる。お願いという言葉で、人を押すやつだ。
「……いや、俺、そういうの、あんまり軽く使いたくないんだけど」
「へえ。真面目。かわいそ」
かわいそ、が本気じゃない。哀れむための語彙を、アクセサリーみたいにぶら下げている。
女は一歩詰めた。近づいたのに、距離が縮まらない。縮まらない理由はひとつしかない。こちらの「退ける余白」が消えている。路地の壁が、ほんの少しだけ内側に傾いて見えた。
逃げ道を作らない。丁寧すぎる。
「名前、聞かないの?」
「今それ言う? 戦闘の開始前に名刺交換するタイプ?」
「そうそう。名刺交換。礼儀でしょ? 社会人として」
「高校生なんですけど。入学式まだなんですけど」
「じゃあ予行演習」
女は笑う。笑いながら、銃口を上げた。照準は正確だ。遊んでいるのに、手元が一切ぶれていない。遊びと精度が同居している。嫌な才能だ。
次の瞬間、音が先に来た。銃声じゃない。空気が裂ける音。弾が通った結果だけが耳に届く。
肩の横を何かが抜けた。熱。焦げ。制服の布が、細い線で焼ける。痛みは遅れてくるはずなのに、痛みが来る前に体がずれている。
「……うわ、危なっ」
言葉のわりに、心臓が正直だった。跳ねる。喉が乾く。舌が張りつく。身体は「怖い」を出すのに、口だけが軽口を続けようとする。
女は楽しそうに目を細めた。
「今の避け方、最高。ほらね。使ってる。もう起動してるじゃん」
起動。言葉が、ポケットの中の布に触れた。
視界の中央に、薄い文字が浮かぶ。
【AXIOM】
待機状態:解除
補助:部分有効
操作:未同意
未同意。ちゃんと書いてある。書いてあるのに、身体は既に「同意した動き」をしている。つまりこれ、いつものやつだ。契約書は後回し。判子は不要。優先権限はシステム。
「……いや、俺、同意してないんだけど」
「同意ってさ、言葉じゃなくて動きでしょ?」
女は銃を下げないまま、もう片方の手を上げた。指を鳴らす。軽い音。馬鹿みたいに軽い音。なのに、その音のあとで空気が変わる。
路地の上、電柱と電線の隙間に、何かがいる。
ドローンじゃない。群体でもない。もっと「人の意志の形」をしている。姿ははっきり見えないのに、存在だけが濃い。観測されるために立っている感じがする。
女が言う。
「ねえ、いっぱつ殴り合お!」
冗談みたいな言い方で、冗談じゃない提案を投げてくる。拳じゃなくて、世界のルールで殴り合お、の方に聞こえる。
「……いや、急にスポ根始めないで」
「スポ根じゃない。儀式。ほら、勝敗つけようよ。勝った方が正しい。簡単でしょ?」
その瞬間、腑に落ちた。
この女は、勝敗が欲しいんじゃない。勝敗という「ラベル」を貼りたい。自分の正しさを、世界に印刷したい。未来を知った人間の悪癖だ。結果だけが価値になった世界で、結果を先に持っているやつがやる遊び。
つまり――この場は、ゲームだ。
ゲームに乗った瞬間、こちらは負ける。勝っても負ける。勝ったとしても「勝った」という結果が相手の餌になる。相手が欲しいのは勝敗の記録で、殴り合いはただの演出だ。
だから、選ぶべきはひとつ。
勝ちに行かない。
勝敗を発生させない。
「……悪いけどさ」
俺は、ポケットの中の手袋を触った。取り出さない。見せない。使わない、じゃない。使い方を変える。
「俺、勝つの、今日やめるわ」
女の眉が跳ねた。初めて表情が動いた。驚きじゃない。不快。自分のシナリオを壊されるときの顔だ。
「は? 何それ。逃げ?」
「逃げじゃない。制圧」
言葉にした瞬間、自分でも可笑しかった。俺が制圧。似合わない。制服の高校生が言う台詞じゃない。でも、似合う似合わないを言ってる場合じゃない。相手のゲームを終わらせるには、こちらが別のルールを置くしかない。
女が笑った。さっきまでの笑いと違う。冷たい。
「制圧って、勝つことでしょ? 正しく倒すこと」
「それがさ、違うんだよ」
俺は一歩、前に出た。距離は縮まらない。でも、重心は伝わる。伝わるのは、相手の目が一瞬だけ足元を見るからだ。殴り合いの準備をする目。
「倒すのが制圧じゃない。動けない状況を作るのが制圧だろ」
「じゃあやってみてよ。ほら。殴れ」
「殴らない。殴るふりはするけど」
「意味わかんない」
「意味わかんないのが、俺の得意分野」
軽口は軽口だ。でも、今のは逃げじゃない。手順だ。
俺は手袋を出さないまま、掌を前に向けた。空気に触る。触れないはずのものに触る動き。人がよくやる、意味のないジェスチャー。
意味は、ある。
視界の端で、【AXIOM】の文字が薄く明るくなる。
【補助】
反射:限定
視野:拡張
判断代行:未許可
未許可。いい。許可しない。勝手に正しさを通すな。今日は、それをやめる。
女が動いた。銃口が上がる。同時に、身体が踏み込んでくる。銃撃と接近戦を同時に成立させるタイプ。派手に見せながら、ちゃんと殺す。殺さないとしても、逃げ道は残さない。
俺は逃げない。逃げる動きをしない。代わりに、進路の「前提」を壊す。
踏み込んだ瞬間、女や俺の足元の路面に、薄い線が走った。見えない線。いつものやつだ。「正しい進行」を示すライン。世界が勝手に敷くレール。
俺はそこを、踏まない。
踏まない、という選択をする。足を置く場所を、わずかにずらす。ほんの数センチ。たったそれだけで、レールに乗らない。レールに乗らないと、相手の動きの「最短」も崩れる。
女の拳が空を切った。俺の頬の横を、風だけが抜ける。避けたんじゃない。そこにいなかった。
女が舌打ちをする。綺麗な舌打ち。舞台の効果音みたいだ。
「ムカつく!」
「分かる。俺もムカつく」
言いながら、俺は拳を出した。
当てない角度で。
拳が女の肩の前を通る。ギリギリ。触れるか触れないか。触れない。触れないのに、女の身体が一瞬だけ止まる。止まる理由は、怖いからじゃない。判断が遅れたからでもない。世界が「接触が起きた」と処理しようとしたからだ。
そう。ここだ。
俺は勝ちに行かない。倒しに行かない。相手に「勝敗」を与えない。その代わり、相手の動きを「処理」に落とす。勝負を戦闘から手続きに変える。現場の嫌なやり方を、逆に使う。
女の周囲の空気が一瞬だけ硬くなる。透明な壁。見えない隔離。今まで俺が何度も食らってきたやつ。
女が目を見開いた。
「……は? なにそれ。私が封鎖されるの?」
「そういうこと。制圧」
「ふざけんな!」
女は壁を殴った。殴る。殴る。派手に。火花が散る。未来装備のスーツが、光を誇示する。銃を撃つ。弾が空気に吸われる。壁の向こう側に届かない。音だけが鳴る。見せ場だけが増える。
でも――結果は動かない。
女の怒りが、初めて「本物」になる。笑いは消える。軽口も消える。素の悪意が顔を出す。
「ねえ。名前、言いなよ」
その言い方が、さっきと違った。お願いじゃない。脅しでもない。執着。名前を握りたい。名前があれば、勝敗を記録できる。ラベルを貼れる。
俺は肩をすくめた。
「悪いけど、今、名刺切らしてる」
「は?」
「入学式前日だからさ。まだ刷ってない」
女の目が細くなる。笑わない。笑えない。こちらの軽口が、ただの挑発に見える段階だ。
「……お前」
女が何か言いかけた瞬間、視界の端に、文字のマスキングが走った。
名前が、出ない。
輪郭だけがある。音だけがある。字面だけが欠ける。世界が意図的に伏せている。ここで名乗らせない。名を残させない。勝敗の記録を成立させない。
それは、俺にとって都合がいい。だけど、気持ちよくはない。世界の都合が、また俺の一拍先で動いている。
「……ほんとさ」
俺は小さく息を吐いた。肩がわずかに落ちる。
「俺がやってるんだか、やらされてるんだか、分かんねえな」
【AXIOM】の表示が、薄く揺れる。
【制圧】
対象:隔離
勝敗:未確定
記録:保留
保留。いい。保留でいい。勝敗なんて、今日はいらない。欲しいのは、誰かが消えないことだけだ。少なくとも、この場では。
隔離の壁の向こうで、女が睨む。燃えるみたいな目。勝敗を奪われた人間の目。未来を持ってるのに、今に負けた顔。
「次、会ったらさ」
女が笑う。笑いが戻る。戻った笑いが、さっきよりずっと怖い。壊れてる笑いだ。
「絶対、勝つから」
俺は返す。軽く。軽く、でも逃げずに。
「うん。頑張って」
「は?」
「努力、大事だよ。未来知ってても」
女の笑いが止まる。止まったあと、空気が一瞬だけ凍る。次に何か起きる気配。隔離が破られる気配。――でも、起きない。
起きないまま、周囲の音が戻る。遠い車。誰かの足音。路地の先の生活。世界は何事もなかったみたいに、次の「正しい進行」に移っていく。
隔離の壁は、消えない。女は動けない。制圧は完了していない。でも、暴力の連鎖は止まっている。
俺はその場を離れる。背中を見せるのは怖い。でも、背中を見せないと終わらない。終わらせるために、歩く。
「……勝たないって、疲れるな」
独り言は拾われない。拾われないことが、今日は少しだけ救いだった。
ポケットの中で、手袋が静かにそこにあった。まだ温度も変わっていない。使ったのに、使ってない顔をしている。そういう道具が、一番やっかいだ。
俺は路地を抜ける。次の話は、たぶん「余波」だ。勝敗のない制圧が、世界にどんな顔で残るのか。きっと、そっちの方が怖い。
それでも、今は一つだけ確かなことがあった。
勝とうとしなかった。
勝敗を作らなかった。
それで、誰も消えていない。
その事実だけを、胸の奥に残して歩いた。

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