「噛む猫は、先に挨拶をする」
その猫は、スフィンクスだった。
毛がないぶん、感情の起伏が全部そのまま出る。
初めて会ったとき、
彼はまず、においを嗅ぎに来た。
足元を一周して、
納得したようにこちらを見る。
――あ、これは大丈夫なやつだ。
そう判断した顔をした次の瞬間、
普通に噛まれた。
「え?」
甘噛みでもなかった。
本気でもなかった。
確認の噛みだ。
女友達は慣れた様子で言った。
「挨拶みたいなもん」
いや、
普通の挨拶は噛まない。
でも彼は、
噛んだあとにすり寄ってきた。
さっきまで警戒していたくせに、
急に距離を詰めてくる。
スフィンクスの男の子は、
距離感の調整が全部極端だった。
食いしん坊だった。
ほっとドッグを食べていたら、
いつの間にか一本、
完全に彼のものになっていた。
途中で止める間もなく、
「それ、俺のだよね?」
という顔をして持っていく。
女友達も、
「もう一本買うか」と言う。
人間側が折れるのが、
この家のデフォルトらしい。
夜、一緒に寝ると、
今度は髪にじゃれてくる。
爪は出さない。
でも容赦はしない。
そのうち、
頭の上から顔を覗き込んできて、
においを嗅ぐ。
そして――
噛む。
理由は分からない。
多分、
「起きろ」
「腹減った」
「生きてる?」
その全部だ。
朝方、
ご飯の催促は正確だった。
時計より正確で、
アラームより強引。
彼は、
時間という概念を
噛みつきで実装していた。
去年の中頃に、
彼はいなくなったらしい。
その話を聞いたとき、
妙に現実感がなかった。
今もどこかで、
知らない誰かのほっとドッグを
横取りしていそうな気がする。
噛む前に、
ちゃんと嗅いでから。
彼は、
最後まで失礼な猫だった。
でも、
ちゃんと挨拶をしてから
噛むやつだった。
それだけは、
間違いない。
