『決めない人の仕事』
その人は、会議では最後まで何も決めなかった。
それなのに、会議が終わるころには、全員が「次に何をするか」だけは分かっていた。
名刺には、肩書きが一行だけ印刷されている。
――構造設計・判断支援。
「で、結局どれにするんですか?」
誰かが痺れを切らして聞く。
その人は、少し困ったように笑って、ホワイトボードを指した。
「三つあります」
左から順に、A、B、C。
「Aは安全です。失敗しません。ただし、面白くもなりません」
「Bは通ります。たぶん。全員がちゃんと仕事をすれば」
「Cは賭けです。今はやらなくていいです」
沈黙。
その人は、マーカーを置いた。
「決めるのは、皆さんです。
僕は“起きること”しか書いてません」
それは脚本みたいだった。
誰が何をして、どこで詰まり、どこで事故が起きるか。
感情の名前は一つも出てこないのに、全員が自分の焦りを見つけていた。
「……じゃあ、Bで行きます」
誰かが言う。
その人は頷いただけだった。
「理由は?」
「Aだと、あとで後悔する気がして」
「それでいいです」
その人は、決して「正しい」とは言わなかった。
ただ、「選べたこと」を確認する。
帰り際、若い担当者が小声で聞いた。
「あなた、何者なんですか?」
少し考えてから、その人は答えた。
「決断の前に、世界を一回ばらす人です」
「決めないんですか?」
「決めると壊れる人がいるので」
その仕事は、記録に残らない。
完成したプロジェクトには、名前が出ない。
失敗しなかった理由にも、載らない。
でも、誰かが立ち止まりそうになるたび、
その人は、次の一行だけを書き足す。
――この場合、こうなる。
それだけで、物語は先に進む。
決めない人の仕事は、
世界が止まらないようにすることだった。
