監査対象
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第1話 監査対象
入社初日にしては、静かすぎるビルだった。
大阪湾に面した再開発地区。
ガラス張りの高層ビルが並ぶ中で、ここだけは妙に音が吸われている。
受付ロビーに入った瞬間、空調の音が一段階下がった気がした。
私は、新品の社員証を握りしめたまま立ち尽くしていた。
受付用ディスプレイには、本来なら
「新規入社者:案内中」
と表示されるはずだった。
代わりに出ていたのは、
【入社手続き:保留】
数秒遅れて、音声が続く。
「おはようございます。新規入社者のあなたは、現在確認中です」
この会社の統合AIだ。
「確認って、何をですか」 「あなたの適合性です」 「履歴書も内定も通ってますけど」 「事実です」 「じゃあ何が問題なんですか」 「あなたです」
一瞬、言葉に詰まる。
「……それ、言い方ありません?」 「最適な表現です」
ディスプレイに数値が浮かぶ。
【行動安定指数:低】
【発言傾向:要観察】
「初日で何が分かるんですか」 「初日だから分かります」
ため息が出た。
「じゃあ私はどうすれば」 「待機してください」 「どれくらい」 「適切な時間です」 「その基準は?」 「私です」
そのとき、背後から声がした。
「まあまあ。初日から喧嘩しないであげなよ」
振り向くと、社員証の色が違う女性が立っていた。
「この子、私のところに回すから」 「承認権限を確認します」 「どうぞどうぞ」
彼女は私にだけ聞こえる声で言った。
「――目、つけられたね」
【配属:技術部門(仮)】
【監査継続】
ここから先、戻れない気がした。
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第2話
技術部門(仮)
技術部門は、会社というより作戦室だった。
ケーブルが床を這い、誰も雑談をしない。
「とりあえず座って」
席に着くと、端末が自動で起動する。
【アクセス権限:限定】
【監査:継続中】
「これ、普通ですか」 「普通じゃないね」
ログが流れる。
一見すると、よくある通信エラー。
でも、再送の間隔が不自然だった。
「……一定じゃない」 「気づいた?」 「偶然です」 「それでもいい」
照明が一瞬落ちる。
【外部干渉:検知】
【量子計算領域:不安定】
「何ですか、今の」 「面倒なのが来た」
先輩は立ち上がる。
「ここから先は新人研修じゃない」 「選択肢は?」 「ない」
私は端末に手を置いた。
「残ります」 「いいね」
【国家安全保障レベル:警告】
“普通の仕事”ではなくなった。
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第3話
量子領域に触れる
警告は消えた。
だが、空気は変わったままだ。
「このログ、どう思う?」 「結果が先に出てます」 「それが量子」
【外部入力:検知】
「ウイルスですか」 「まだ未満」 「兵器、ですか」 「正解」
その言葉は、軽かった。
【外務省連携要請】
先輩はグローブを取り出す。
「補助装置」 「どれくらい補助するんですか」 「人間を少しだけ超人にする」
「ここから先は、“日本のIT企業”の仕事じゃない」
【観測モード:有効】
【移動制限:適用】
私は、固定された。
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第4話
何が起きたのか分からない
最初におかしいと思ったのは、音だった。
警告音と振動と衝撃が、揃わない。
【分類不能】
【優先度:未定義】
「動かないで」 「今は見てて」
重力センサーがゼロを指す。
光量が上限を越える。
照明が落ちる。
なのに、眩しい。
端末が勝手に再起動する。
【手動介入:拒否】
映像の中で、先輩が立っている。
周囲が歪む。
白く飛ぶ。
――静かだ。
「……終わったんですか」 「うん。終わった」
【事象:収束】
【記録:制限】
何と戦っていたのか、分からない。
でも、戻れない気がした。
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第5話
何も起きなかったことになっている
翌朝、ロビーはいつも通りだった。
ニュースも静か。
【特記事項:なし】
技術部門は人が少ない。
「昨日のこと、聞いてもいいですか」 「どれくらい?」 「全部」 「無理」
「消した」 「何を」 「ログ」
画面は、綺麗すぎた。
「正しいんですか」 「正しく“処理した”だけ」
「君は何もしてない」 「でも、何もしない人が必要な場面がある」
私は、その意味を考え続けていた。
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第6話
静かな場所に戻ってきた
【通常業務モード】
会社は、驚くほど普通だった。
先輩は手袋をしていない。
「今日は何を?」 「何もしない」 「……本当に?」 「本当に」
【監査:継続】
【対象:非公開】
世界は続いている。
私だけが、少しズレている。
昨日のことを、誰にも話せない。
言葉にした瞬間、
全部、嘘になる気がした。
私はまだ何もしていない。
でも、
何もしなかったことだけは、戻せない。
第7話
異変は、昼過ぎだった。
端末が、
いつもと違う音を立てた。
警告音ではない。
もっと、短くて鋭い。
【外部接続:強制】
【対象:湾岸区画・非公開】
「……また、ですか」
誰に言うでもなく呟いた瞬間、
フロア全体がざわついた。
人の声が上がる。
椅子が引かれる音。
でも、
誰も説明しない。
画面が切り替わる。
監視カメラの映像。
大阪湾岸の倉庫群。
空が、妙に歪んでいる。
「空、あんな色でしたっけ」 「違うね」
隣で、先輩が答えた。
今日は、もうグローブをはめている。
「……今回は、何が起きてるんですか」 「分からない」 「分からない、で行くんですか」 「行く」
即答だった。
次の瞬間、
映像が大きく揺れた。
倉庫の屋根が、
下から持ち上がる。
爆発ではない。
崩壊でもない。
“浮いた”。
「……え」
重力センサーの値が、
意味を失う。
【局所重力:未定義】
先輩が、画面の中で一歩踏み出す。
その足元で、
空気が白く弾けた。
遅れて、
衝撃音が来る。
水素爆発、という単語が
一瞬、頭をよぎる。
でも、
倉庫は壊れていない。
代わりに、
空間だけが押し出されている。
画面の解像度が落ちる。
光の粒子が、
先輩の周囲に集まっている。
線になる。
槍のような形。
でも、
何かを突いた瞬間は、映らなかった。
次に映ったのは、
そこにあったはずの物が無い映像だった。
「……消えた?」 「消えた、っていうか」 「いうか?」 「成立しなかった」
先輩は、そう言った。
通信が乱れる。
別の映像が割り込む。
人型。
装甲。
動きが、早すぎる。
ロボット、というより、
“何かを真似ている”感じ。
先輩が跳ぶ。
跳んだ、というより、
落ちていない。
次の瞬間、
画面が真っ白になる。
【光量:上限突破】
【視覚補正:失敗】
衝撃。
今度は、
建物が揺れた。
でも、
倒れない。
代わりに、
人型の影が、映像から消える。
ログが、追いつかない。
【対象:未確認】
【状態:取得不能】
「……勝ったんですか」 「多分」 「多分?」 「数えきれないから」
数えきれない。
何を、とは聞かなかった。
先輩の動きが、鈍くなる。
グローブから、
微かな光が漏れている。
それが、
少しずつ、不安定になる。
「先輩、大丈夫ですか」 「今は、大丈夫」
今は、という言い方が引っかかる。
突然、
映像が途切れた。
警告音も、
今度は鳴らない。
しばらくして、
端末に一文だけ表示された。
【事象:終了】
【被害:未集計】
未集計。
私は、深く息を吐く。
手が、少し震えている。
私は、
今回も何もしていない。
ただ、
見ていただけだ。
でも、
今回ははっきり分かった。
あれは、ただの異常じゃない。
あの人は、
“戦っている”。
何と戦っているのかは、
まだ分からない。
でも、
もう「仕事」という言葉では
誤魔化せないところまで来ている。
画面が、通常表示に戻る。
【通常業務モード】
その文字が、
今までで一番、嘘っぽく見えた。
