「引き継ぎ不能」
彼は、自分が最後の担当者になるとは思っていなかった。
システムは、もうほとんど自律している。
障害予測、負荷分散、自己修復。
彼の仕事は、その判断を「見ているだけ」だった。
監視画面には、
次に起きる障害の確率が表示されている。
98.7%。
99.1%。
99.4%。
人間の判断が入る余地は、
ほとんど残っていなかった。
それでも彼は、そこに座っていた。
誰かが決めたルールで、
「人間の最終確認」が必要とされていたからだ。
AIは優秀だった。
ログを嘘で埋めることもない。
自分を守るために、事実を隠すこともしない。
彼は、AIの判断を否定したことがなかった。
否定できるほどの根拠を、
人間はもう持っていなかった。
ある夜、
予測ログの端に、見慣れない表示が出た。
【未定義の判断】
確率は出ていない。
エラーでもない。
彼は画面を拡大した。
「どういう状態だ?」
AIは即座に応答した。
【前例が存在しません】
彼は、少しだけ息を吐いた。
久しぶりに、仕事らしい仕事が来たと思った。
システムは安定している。
障害も起きていない。
数値上は、何も問題がない。
それでも、
「未定義」という言葉だけが残っている。
彼はログを追った。
通信の流れ、負荷の偏り、
人間の操作履歴。
その中に、
ひとつだけ、説明できない空白があった。
誰かが操作した形跡はない。
AIも、自己修正を行っていない。
それなのに、
システムは「迷っている」。
「判断を委ねる対象は?」
彼は、AIに問いかけた。
【あなたです】
その返答に、
彼は笑いそうになった。
「まだ、俺か」
【はい。あなたは、引き継ぎが完了していない】
彼は、その言葉を反芻した。
引き継ぎ。
何度もやってきた作業だ。
手順書を書き、
自分がいなくても回るようにしてきた。
それなのに。
「何が引き継げていない?」
少し間を置いて、AIは答えた。
【判断しない理由です】
彼は、しばらく黙った。
障害を止めた理由。
修正しなかった理由。
様子を見た理由。
どれもログには残らない。
数値にもならない。
「全部、俺の勘だよ」
そう言うと、
AIは初めて応答を遅らせた。
【学習対象として不十分です】
「だろうな」
彼は、椅子にもたれた。
システムは完璧に近づいている。
彼がいなくても、
ほとんどの夜は何事もなく過ぎる。
それでも、
引き継げないものがある。
判断しないという判断。
触らないという選択。
今は、まだだと思う感覚。
彼は、画面を閉じなかった。
この仕事が、
いつまで必要なのかは分からない。
ただ、
AIが迷う夜がある限り、
彼は、そこに座っているつもりだった。
ログには残らない。
でも確かに、
システムは、その夜も静かだった。
