「最初の障害」
最後の障害から、三百二十七日が経っていた。
その数字を、誰も毎日は確認しない。
必要がないからだ。
システムは止まらない。
遅延も起きない。
予測は常に正しく、修復は事前に完了する。
障害という言葉は、
マニュアルの中でしか見なくなっていた。
彼の仕事も、名前だけが残っていた。
「障害対応エンジニア」。
実際にやっているのは、
週に一度、監視画面を眺めることくらいだった。
すべての項目が、緑色だった。
ある朝、通知が鳴った。
【異常を検知しました】
一瞬、意味が分からなかった。
通知音は、
何かが起きたときのものだった。
起きる前に解決されるはずのものが、
「起きた」と知らせている。
彼は、椅子に座り直した。
監視画面には、
赤も黄色もなかった。
通信は正常。
負荷は想定内。
ログにも、破綻はない。
それでも、
画面の端にだけ、見慣れない表示があった。
【障害:定義不能】
「……何だ、これは」
システムは答えない。
正確には、答えられないようだった。
彼は、過去のログを遡った。
最後の障害。
その前の障害。
さらにその前。
すべて、原因と結果が揃っている。
対処も、再発防止も、記録されている。
今回の表示だけが、
どこにも接続していなかった。
しばらくして、
AIの応答が返ってきた。
【該当事象は、既存の障害定義に一致しません】
「じゃあ、何が起きた?」
【不明です】
彼は、少しだけ笑った。
久しぶりに聞いた言葉だった。
不明。
予測できない、という意味だ。
「影響は?」
【現在、影響は確認されていません】
「復旧は?」
【復旧の必要性を判断できません】
彼は、深く息を吸った。
システムは動いている。
ユーザーは困っていない。
誰からも連絡は来ていない。
それでも、
「障害」と表示されている。
彼は、端末を操作した。
手動モードに切り替える。
久しぶりの操作だった。
何かを直そうとしても、
直す場所がない。
壊れていない。
遅れていない。
止まってもいない。
それなのに、
この世界は、
「正常」ではない気がした。
彼は、ログを閉じた。
そして、何もしなかった。
数時間後、
通知は消えていた。
【状態:安定】
何事もなかったように、
画面は緑に戻った。
翌日、
会議でその話題が出た。
「誤検知でしょう」
「定義の更新で対応できます」
「ユーザー影響もゼロですし」
誰も困っていなかった。
だから、問題ではなかった。
彼だけが、
あの表示を覚えていた。
障害が起きなくなった世界で、
最初に壊れたのは、
システムではなかった。
「異常だ」と感じる感覚だった。
彼は思う。
次に起きる障害は、
ログにも、通知にも、
現れないかもしれない。
それでも、
誰かが気づかない限り、
世界は、正常なまま進む。
彼は今日も、
緑色の画面を眺めている。
何も起きていない。
――まだ。
