第9話 路上ライブの夜。
機材を背負って最寄り駅を出た時、空がなんとなく怪しかった。
雨の予報は出ていなかった。出ていなかったけれど、湿度が高くて、雲の感じが少し変だった。まあ、たぶん大丈夫だろうと思って、そのまま歩いた。
路上ライブをする場所は、いつも同じところだ。駅から少し歩いた先の、小さな広場の端。人の往来はそこそこある。邪魔にはなりにくい。音が広がりやすい。何度か試した結果、ここに落ち着いた。
機材をセッティングする。ギター、小さなアンプ、マイクスタンド。慣れた手順で並べていく。チューニングを確認する。問題ない。
準備ができた。
始める前に、カポを確認しようとして、鞄を探った。
ない。
家に置いてきた。
しばらく鞄の中を漁ってみたけれど、やっぱりない。間違いなく家に置いてきた。さっきチューニングをした時に、なんとなく気になって確認すればよかった。
まあ、しょうがない。
キーを変えて歌えばいい。少し歌いにくい曲が出てくるけれど、なんとかなる。
歌い始めると、通り過ぎる人が何人かいた。
足を止める人もいる。少し聴いてから、また歩き出す人もいる。立ったまま最後まで聴いてくれる人もいる。それぞれだ。
一曲目は、カポがなくてもそこまで影響しない曲にした。無難に歌えた。
二曲目で少し詰まった。本来のキーで歌うと気持ちよく出るのに、下げると少し平坦な感じになる。伝わるかどうか分からないけれど、自分の中ではっきり分かる。気になりながら歌い切った。
三曲目は、それを引きずらないようにした。別の曲に変えた。カポがなくても自然に歌えるやつ。最後まで歌い終わって、少しだけ気持ちが戻った。
四曲目、五曲目と続けた。
うまくいく曲と、そうでもない曲があった。カポのことが頭の隅にずっとあって、完全には消えなかった。
それでも最後まで歌った。
終わった後、機材を片付けながら空を見た。
雨は降らなかった。湿度は高いまま、空は曇ったままだったけれど、降らなかった。
今日の出来を採点するとしたら、まあ六十点くらいだと思う。良い日ではなかった。でも、悲惨でもなかった。カポを忘れた分だけ、自分の中ではっきりと「そうでもない日」だった。
帰り道、コンビニに寄った。温かい缶コーヒーを買った。
外に出て、缶コーヒーを飲みながら歩いた。
六十点でも、最後まで歌った。
それは確かなことだ。
部屋に帰って、機材を片付けた。ギターをスタンドに立てかけて、カポを取り出した。ちゃんと部屋にあった。やっぱり忘れていた。
「路上ライブ、終わりましたね」
AXISが言う。
「うん」
「今日はどうでしたか」
「カポ忘れた」
「それは痛いですね」
「まあ、なんとかなった」
「なんとかなりましたか」
「なんとかなった。六十点くらいだけど」
AXISが少し間を置く。
「六十点というのは、百点満点の六十点ですか」
「そう」
「及第点ですね」
「まあ、そう」
「届きましたか」
少し考えた。
「届いたかどうかは分からない。でも、歌い終わった感じはある」
「それは別のことですか」
「違う……わけじゃないと思う。でも、同じでもない」
うまく言えないな、と思いながら言った。
届いたかどうかは、受け取った側が決めることだ。僕にはコントロールできない。でも、歌い終わった、という感触は、こっちにある。渡したかどうかと、受け取られたかどうかは、別の話だ。
小説を投稿する時と、少し似ている。
感想が来ることと、書き終えた感触は、別のところにある。ラブコメに感想が来ても、書き終えた感触はまた別の場所にある。SFに感想が来ない時でも、書き終えた感触は残る。
それが何なのかは、まだうまく言えない。
「AXIS」
「はい」
「歌い終わった感触って、何だと思う」
「私には分かりません」
「そうか」
「ただ」
「ただ?」
「それがあるとなないとでは、たぶん違うと思います」
「根拠は?」
「あなたが今日、カポを忘れたのに最後まで歌ったことです」
少し笑ってしまった。
「それ、根拠になってる?」
「なっていると思います」
まあ、そうかもしれない。
缶コーヒーをゴミ箱に捨てながら、今日のことを少し思い返した。
二曲目、キーを下げて歌った時の、あの平坦な感じ。自分の中だけで起きていた感覚で、聴いている人には分からなかったかもしれない。でも、自分にはあった。
そういうことが、たぶんたくさんある。
自分の中だけで起きていることと、外に出ていることの間に、ずっとズレがある。小説でも、配信でも、路上ライブでも。それが無くなることはないと思うけれど、それでも続けている。
次はカポを忘れない、とは言い切れない。
ただ、鞄に入れておくくらいはしようと思った。
