第7話 恒一と、猫と、何もない昼。

 水野恒一の家に行く時は、だいたい手ぶらで行く。

 何かを持っていこうと思うこともあるけれど、考えているうちに出発する時間になって、結局何も持たないまま行くことになる。今日もそうだった。

 最寄り駅から歩いて十分くらいのところに、恒一は同棲相手と住んでいる。二階建ての小さなアパートで、ドアを開けると猫の気配がする。

「来た」

「来た」

 挨拶がそれだけで済むのが、恒一のいいところだ。


 恒一の家には猫が四匹いる。

 玄関を入ると、まず灰サビが足元に来た。かまってちゃんで、とにかく触ってほしいタイプだ。撫でると喉を鳴らす。

「今日機嫌いいな」

「昼寝したから」

「猫の機嫌が昼寝で決まるの?」

「だいたいそう」

 リビングに移ると、茶サビがソファの上にどっしりと構えていた。動じない。こちらが近づいても顔だけ向けて、それ以上は動かない。存在感だけある。

 はちわれは台所のほうから出てきて、ごはん皿のあたりをうろついている。まだ時間じゃないのに、と恒一が言った。「分かってるけど確認したいんだよ、あいつ」とも言った。

 長毛の白黒は、ぜんぜん出てこなかった。どこかにいるらしいけれど、姿が見えない。

「四匹目は?」

「たぶん押し入れ」

「なんで」

「気分」

 そういうもんか、と思った。


 お茶を飲みながら、特に何も話さなかった。

 恒一はもともと多弁な人間じゃない。ゲームの話になると饒舌になるけれど、それ以外は必要なことだけ言って、あとは静かにしている。その静かさが、一緒にいて楽な理由の一つだと思う。

 猫の話を少し聞いた。

 灰サビが最近やたら鳴くこと。茶サビが一度だけ膝に乗ってきたこと。はちわれがごはんの食べっぷりだけは他の三匹より明らかに良いこと。白黒が相変わらず我が道を行いていること。

 聞いていると、恒一が猫一匹ずつを本当にちゃんと見ているのが分かる。性格を把握している。好みを覚えている。特別なことをしているわけじゃないのに、それぞれの猫がちゃんとそこにいる。

「白黒、慣れた?」

「少しずつ。まあ、あいつのペースがあるから」

「急かさないんだ」

「急かしてもしょうがないし」

 そうだな、と思った。

 しばらくしてから、押し入れの引き戸が少しだけ開いて、白黒がこちらを覗いた。目が合う。しばらくそのままでいた後、また引き戸が閉まった。

「出てきた」

「出てきてないだろ」

「覗いたじゃん」

「それは出てきたとは言わない」

 まあ、そうかもしれない。


 昼飯は恒一が作った。特別なものじゃなくて、冷蔵庫にあるものを使った炒め物と、ご飯と、味噌汁だった。

 食べながら、同棲相手の話を少し聞いた。来月、仕事の都合で少し忙しくなるらしい。恒一は「まあ、俺も別に暇じゃないしな」と言って、それ以上は掘り下げなかった。

 心配してるのか聞こうかと思ったけれど、やめた。

 聞いても恒一は「別に」と言うだろうし、本当に大丈夫なのか大丈夫じゃないのかは、今日には分からない。それより、猫の話をしている方が、この場には合っている気がした。

「猫って、飼ってみてどうだった」

「どうって?」

「思ってたのと違うとか、あった?」

 恒一が少し考えてから答えた。

「思ってたより、それぞれ全然違う」

「四匹みんな違うってこと?」

「うん。猫ってみんな似てると思ってたけど、全然そんなことない。性格も、好みも、甘え方も、全部違う」

「観察してないと分からないやつだ」

「そう。でも、観察しようとしなくても、一緒にいたら自然に分かってくる感じがある」

 へえ、と思った。

 分析しようとしないのに、分かってくる。それが恒一の猫との付き合い方らしかった。


 夕方になる前に、そろそろ帰ろうと思って立ち上がった。

 玄関で靴を履いていたら、恒一が「傘」と言った。

「え?」

「折りたたみ、そこに置いてある」

 見ると、傘立てに自分の折りたたみ傘が刺さっていた。来る時に置いたままにしていた。

「危なかった」

「毎回忘れる」

「そんなに?」

「三回中二回は置いてく」

 確率が高すぎる。

「ありがとう」

「うん」

 そのまま別れた。


 帰り道、電車に乗りながら、今日のことを思い返していた。

 何も起きなかった。相談も、依頼も、分析するようなこともなかった。猫の話を聞いて、飯を食って、少し話して、帰った。それだけだ。

 それだけなのに、なんか体に残っている感じがある。

 何が残っているのかは、うまく言えない。ただ、何かが残っている。

 整理しようとすると、消えてしまいそうな感じがして、今日はあえてそのままにしておくことにした。

 部屋に帰って、デスクに座ると、AXISが言った。

「今日は何か解決しましたか」

「何も」

「それは良かったですか」

 少し考えた。

「…たぶん」

「そうですか」

 そうですか、という短い返事が、今日はちょうど良かった。

 説明しなくていい、という感じ。

 折りたたみ傘を鞄から出して、玄関に置いた。次に恒一の家に行く時も、たぶん持っていくのを忘れる。

 まあ、それはその時でいいか、と思った。

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