第5話 声を、少し変えた話。
配信を始める前は、毎回少しだけ緊張する。
緊張、というほど大げさなものじゃないかもしれない。ただ、スタートボタンを押す直前に、一回だけ深呼吸する。それがいつの間にか習慣になっていた。
Live2Dのモデルを立ち上げる。狸のキャラクターで、耳がふわっとしていて、しっぽがある。デザインは知り合いに頼んだ。「識っぽいのにしてください」と言ったら、なぜか狸になって返ってきた。理由を聞いたら「なんとなく」と言われた。まあ、気に入っているので文句はない。
マイクのレベルを確認する。オーディオインターフェースのゲインを少し調整して、モニタリング用のイヤホンをつける。
準備ができた。
スタートボタンを押す。
……あ、OBSの画面切り替えを忘れていた。
慌てて切り替える。たぶん最初の数秒、真っ黒な画面を配信していた。
「すみません、最初ちょっとミスりました」
コメントが流れてくる。「草」「いつもの」「かわいい」。
いつもの、は少し傷つく。
今日の配信は、雑談と歌を交互にやる形にした。
最初の十五分くらいは雑談。視聴者が少しずつ入ってくる。コメントが流れる。「お疲れ様です」「今日も来ました」「狸ちゃんだ」。常連っぽいコメントと、初めて来たっぽいコメントが混ざっている。
「今日は雑談してから歌います。リクエストある人はコメントで」
チャット欄にいくつか曲名が流れてくる。知っている曲もあるし、知らない曲もある。知らない曲はその場で調べながら答える。「これ知らなかったけど聴いたら好きだった」という話をしたら、コメントで「布教成功」と流れてきて、少し笑った。
雑談の内容は、大した話じゃない。最近食べたもの、仕事の話を少しぼかした形で、天気の話。深い話はしない。でも、それでいいと思っている。ここは深い話をする場所じゃない。
歌に入る前に、少しだけ発声を確認する。
マイクに向かって、低い音から順番に出していく。声が体から出てくる感触を確かめる。今日は調子がいい。喉が開いている感じがする。
三曲歌った。
一曲目はアップテンポのJ-POP。最近よく聴いている曲で、キーも合っていた。二曲目はリクエストで来たバラード。これは少しだけ難しくて、サビのあたりで音が揺れたけれど、まあ許容範囲だと思う。三曲目は自分で好きな曲を選んだ。静かな曲で、コメント欄も少し落ち着いた。
歌い終わると、コメントが流れてくる。
ありがとう、とか、良かった、とか、短いものが多い。長いコメントはあまり来ない。でも、短いコメントのほうが、なんとなく速度が合っている気がする。
雑談を少し挟んで、今日の配信を締める。
「ありがとうございました。また来てください」
エンドボタンを押す。
配信が終わった。
イヤホンを外して、椅子の背もたれに体を預ける。
配信の後は、しばらくぼんやりする時間がある。別に疲れているわけじゃないけれど、どこかで使っていたものを戻す感じ、とでも言うのか。うまく言えないけれど、毎回そういう時間がある。
アーカイブの確認をしながら、コメントをざっと見ていく。
リアルタイムで流れていたコメントを、終わってから読むのは少し違う感触がある。タイムスタンプがついていて、どの瞬間に誰がどういうことを言ったのか、後から確認できる。リアルタイムでは追えていなかったコメントが目に入ることもある。
三曲目が終わったあたりのコメントを読んでいると、一行だけ止まった。
声、好きです。
短いコメントだった。名前は知らないアカウントだった。
特別なことは何も書いていない。ただ、「声、好きです」とだけある。
なんとなく、そのコメントを見たまま少し時間が経った。
嬉しい、というのは当然ある。歌いに来ているわけだから、声を好きと言ってもらえることは、ありがたいことだ。
ただ。
今の声が、自分の声になったのは、そんなに昔の話じゃない。
手術をしたのは、何年か前のことだ。声帯に関わる処置で、それなりに時間もかかったし、術後しばらくは声が出なかった。ホルモン治療と合わせながら、少しずつ、今の声になっていった。
今の声は、自分の声だと思っている。
思っているけれど、手術前の声を、もう覚えていない。
どういう声だったか、ということが、記憶の中にない。録音が残っているわけでもないし、残したいとも思わなかった。だから今となっては、どういう声だったのかが、自分でも分からない。
忘れたことへの後悔はない。ただ、たまにふと、「そういえばそっちは分からないんだった」と気づく瞬間がある。今日が、そういう瞬間だった。
声、好きです。
そのコメントを書いた人が好きなのは、今の声だ。今の声しか知らない。それは当たり前のことだ。
今の声は、自分の声か。
たぶん、そうだ。
たぶん、というのが少し引っかかる気もするけれど、今夜はそれ以上考えなかった。
「配信、終わりましたね」
AXISが言う。
「うん。最初ミスったけど」
「OBSの切り替えですね」
「見てたんかい」
「常時起動しています」
「まあそうか。毎回ちゃんと確認しようと思うんだけど、毎回忘れるんだよな」
「チェックリストを作りましょうか」
「作って」
「了解です」
あっさり作ってくれるのが、AXISの良いところだ。頼んだ瞬間にはもう動いている。
コメント欄をもう一度スクロールする。「声、好きです」のコメントは、まだそこにある。
ふと、誰かに言われたことを思い出した。
いつだったか、誰に言われたかは、はっきりしない。ただ、「識の声、好きだよ」という言葉が、どこかにある。
誰の声だったか、引っ張り出そうとして、やめた。
今夜引っ張り出すことじゃない気がした。
「AXIS」
「はい」
「今日、歌どうだった?」
「三曲目が一番良かったと思います」
「なんで」
「力んでいなかったので」
「それって褒めてる?」
「褒めています」
「ならよかった」
チェックリストの通知が来た。開いてみると、配信前の確認事項が七項目並んでいた。一番上に「OBSの画面切り替え」と書いてある。
「一番上に持ってきてくれたんだ」
「頻度が高そうだったので」
「……正しいけど、なんか複雑」
「参考程度に」
モニターを閉じる前に、もう一回だけコメントを見た。
声、好きです。
それだけのコメントが、今日は少しだけ長く残った。
なぜそうなのかは、うまく言えない。
まあ、うまく言えないことの一つとして、今夜はそっとしておくことにした。
チェックリストは、次の配信前にちゃんと使おうと思う。たぶん忘れるけど。
