第4話 人間関係に、デバッグは効かない。
佐伯蓮という人間は、感情で動いてから理屈をつける。
本人はたぶん、その順番に気づいていない。いや、うすうす気づいているかもしれないけれど、認めたくないんだと思う。だから話すたびに、やたら論理的な説明をする。感情が先にあるのに、言葉は後から整えてくる。
幼馴染なので、そういうのは全部見えている。
見えていると伝えたことはない。伝えてもたぶん「そんなことはない」と言うだろうし、それはそれで面倒だ。
蓮から電話が来たのは、平日の夜だった。
「なあ、ちょっといいか」
「どうぞ」
「妻と話がかみ合わなくなった」
開口一番それだった。挨拶とか近況とか、そういうものが全部省略されている。まあ、こいつはいつもそうだ。
「かみ合わなくなった、というのは最近の話?」
「二ヶ月くらい前から」
「何かきっかけがあった?」
「それが分からないんだよ。だから、おまえに聞こうと思って」
我ながら便利に使われているという自覚はある。
「直接本人に聞いた?」
「聞いた。でも『別に』って言われた」
「別に、の後に何か続いた?」
「続かなかった」
「そっか」
電話口の向こうで、蓮がソファに座り直すような音がした。
「なあ、これ、俺が何か悪いことしたのかな」
「それはまだ分からない」
「分かってくれよ」
「分析するには情報が足りない」
蓮がぶっと息を吐く音がした。
「なんでそんなシステム的な言い方するんだよ」
「おまえが分析してくれって言ったんだよ」
「そうだけど」
まあ、そうなんだよな、と思う。分析してくれと言いながら、分析されたいわけじゃない。そういう相談はわりと多い。
「とりあえず話してみて。最近どういうやり取りしてたか」
蓮の話を整理すると、こういうことだった。
二ヶ月前から、妻との会話が少し噛み合わない感じがある。喧嘩しているわけじゃない。どちらかが怒っているわけでもない。ただ、なんとなく、話が終わった後に「あれ?」という感じが残る。
蓮は心当たりを探して、最近自分の仕事が忙しかったこと、子どもが生まれてから生活リズムが変わったこと、そういうことを挙げた。全部正しそうな原因だった。
ただ、話を聞いていると、一つ気になることがあった。
「蓮、最近妻さんに何か提案とか、意見したことある?」
「ある。子どもの保育園のこととか、家計の管理とか」
「それ、どういう感じで話した?」
「どういう感じって……普通に、こうした方がいいんじゃないかって」
「理由とかデータとか、一緒に持っていった?」
「そりゃそうだよ。なんで変えた方がいいか、ちゃんと説明しないと伝わらないだろ」
あー、と思った。
構造は見えた。
「蓮、それたぶん正しいと思う」
「だろ?」
「ただ」
「ただ?」
少し考えてから、どう言うか決める。
「正しいんだけど、正しすぎる話って、ときどきしんどいんだよ」
「しんどい?」
「うん。完璧に理屈が通ってると、反論できないじゃないですか。反論できないと、納得したことになる。でも、納得したのと、気持ちが追いついたのは別の話で」
蓮がしばらく黙った。
「……それって、つまり俺が正論言いすぎってこと?」
「正論が悪いわけじゃなくて、タイミングと温度の話だと思う」
「タイミングと温度」
「うん。保育園の話とか、家計の話って、たぶん妻さんも一緒に考えたいんだよ。でも、結論と根拠が整った状態で持ってこられると、もう終わった話みたいに見える。参加する余地がない、みたいな」
蓮がまた黙る。今度は少し長かった。
「……そういうことか」
「かもしれない、という話だけど」
「いや、そういうことだわ」
急に断定するのが蓮らしい。さっきまで「分からない」と言っていたのに、一つ見えたら全部分かった顔になる。
「じゃあどうすればいい」
「それは俺には分からない」
「えっ」
「妻さんが何を求めてるかは、妻さんに聞くしかない。俺に分かるのは構造だけで、答えは出せない」
電話口で、蓮が露骨に拍子抜けした音を出した。
「役に立たねえな」
「そう」
「いや、もうちょっとなんかあるだろ」
「直接聞いてみたら。『最近どう?』くらいで始めたらいいんじゃない」
「それだけ?」
「それだけ」
蓮がまた息を吐く。
「……まあ、やってみる」
「うん」
「おまえってほんと、途中までは鋭いのに最後が雑だよな」
「雑じゃなくて、そこから先は俺の仕事じゃないんだよ」
「同じことじゃないか」
「違う」
蓮は「まあいい」と言ってから、「ありがとな」と言った。感謝を言うのを少し照れているような、いつもの感じだった。
「そういえばさ」
「うん?」
「おまえの小説、妻が読んでたぞ。職場のやつ」
少し間があいた。
「え、なんで」
「俺が教えた。なんか面白そうだったから」
「勝手に教えないでよ」
「面白かったって言ってたぞ。続き気になるって」
「……そう」
「なんで嬉しそうじゃないんだよ」
「嬉しいよ」
「嬉しくなさそうだけど」
「嬉しい。ありがとう、妻さんに」
蓮は「ふーん」と言って、電話を切った。
通話を終えて、椅子に座ったまま少し考える。
構造は見えた。蓮の言っていることは正しかった。タイミングと温度がズレていた。それだけの話だった。
ただ、正直に言うと、答えは出せなかった。
蓮夫婦の間で何が必要なのかは、二人にしか分からない。僕にできるのは、ズレを言葉にするところまでで、そこから先に踏み込む道具を、僕は持っていない。
それとは別のところで、さっきの話が少し頭に残っていた。
妻さんが読んでいた。面白かったって。
嬉しい。嬉しいんだけど、なんか複雑だ。
職場で女性扱いされる主人公の話が、届いている。ちゃんと届いている。それはたぶん良いことだ。
でも僕が書きたいのはSFで、あっちはなんとなく書き始めたやつで。届いているのに、届いた場所が思っていたところじゃない、みたいな感じが、少しある。
まあ、贅沢な悩みではあるんだけど。
「随分と考えていますね」
AXISが言う。
「蓮のことと、それ以外のこと」
「それ以外とは」
「小説が届いてる話」
「複雑ですか」
「複雑。蓮の妻さんに読まれてたって聞いて、嬉しかったのは本当なんだけど」
「でも」
「でも、なんか、ちゃんと喜べない感じがする」
AXISが少し間を置く。
「答えが出なかったのと、役に立てなかったのは別の話ですよね」
「今それ蓮の話?小説の話?」
「両方です」
少し笑ってしまった。
「まあ、そうだな」
モニターに目を向けると、SFのプロットファイルが開きっぱなしになっていた。銀河の端っこで、二人が出会う話。さっき少し設計を進めようとして、どんどん書きたいことが増えて、結局まとまらなかったやつ。
書きたいことが多すぎる時の話は、だいたいうまくいかない。
それでも、書きたいのはこっちだ。
「AXIS、今日はもう終わりにする」
「了解です」
「蓮、うまくいくといいな」
「そうですね」
「妻さんに小説読んでもらったのは、素直に嬉しかった」
「そうですね」
「でも、SFも読んでほしい」
「……それは、蓮さんの妻さんにですか。それとも一般的な話ですか」
「両方」
「なるほど」
そうですね、が二回続いた後の、なるほど。
AXISにしては珍しいな、と思いながら、モニターの電源を落とした。
