第2話 きれいな嘘は、たいてい親切でできている。
仕事のチャットで「ちょっと相談があるんですが」と来た時、だいたい二種類ある。
本当に技術的な話のやつと、そうじゃないやつ。
今回は後者だった。
送ってきたのは、同じプロジェクトに入っている後輩で、名前を川田という。入社三年目で、要領が良くて、報告書の書き方がきれいで、上司受けが良い。そういう印象だった。
「お時間あれば、今日の夕方とかどうでしょう」
リモートワークなのでビデオ通話になる。夕方、画面の向こうの川田は、いつも通りきちんとした顔をしていた。
「あの、変な相談なんですけど」
「変な相談、わりと得意ですよ」
「そうなんですか」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。とりあえず聞きます」
川田は少し笑ってから、こう言った。
「最近、褒められるほど、何かがズレていく気がするんです」
ああ。
そういう話か。
川田の話を整理すると、こういうことだった。
半年くらい前から、直属の上司との関係がうまくいくようになった。報告のタイミング、言葉の選び方、会議での発言量。少しずつ調整していったら、「川田は話が早い」「伝え方が上手い」と言われるようになった。
それ自体は悪いことじゃない。
ただ、最近、何かが変な感じがする、と川田は言った。
「何かって、どういう感じですか」
「うまく言えないんですけど……自分が何を思ってるのか、たまに分からなくなるというか」
「たとえば」
「会議で意見を求められた時に、パッと答えが出るんですよ。でもその答えって、たぶん上司が聞きたいやつで。自分が本当にそう思ってるかどうか、後から確認しようとしても、よく分からないんです」
なるほど。
これは割と丁寧に話を聞かないといけないやつだ。
「それ、どのくらい続いてますか」
「二、三ヶ月くらい……かな。最初は気のせいかと思ってたんですけど」
「気のせいじゃないですね、たぶん」
川田がわずかに表情を変えた。否定されると思っていたのかもしれない。
「そうですか」
「うん。ちゃんと起きてることだと思います」
少し考えながら、どう説明しようか組み立てる。
これは川田が悪いわけでも、上司が悪いわけでもない。構造の問題だ。
「川田さん、上司に合わせた話し方を身につけましたよね」
「はい」
「それって、練習したんですか。それとも自然に?」
「自然に……だと思います。こういう言い方のほうが伝わるな、って気づいてたら」
「そうですよね。で、それを繰り返してたら、精度が上がってきた」
「はい」
「問題はそこで、精度が上がると、今度は考える前に出てくるようになるんです。筋肉みたいなもので」
「筋肉」
「変なたとえですけど。使えば使うほど反射になっていく。で、反射になると、自分が考えて出したのか、勝手に出てきたのかが、だんだん分からなくなる」
川田はしばらく黙っていた。
「……あ、そういうことか」
「心当たりありますか」
「あります。なんか、言った後に『これ、自分の意見だっけ?』って思うことが」
「それです」
まあ、我ながら面倒くさいことを説明しているという自覚はある。でも、たぶんこれがいちばん近い。
「じゃあ、どうすればいいですか」
正直に言うと、簡単な答えはない。
身につけたものを全部捨てろとは言えない。それはそれで川田の仕事に必要なものだし、上司との関係が崩れたとして、それが川田の得になるかどうかも分からない。
「全部やめる必要はないと思います」
「はい」
「ただ、一個だけ試してみてもいいことがあって」
「なんですか」
「答えを出した後で、一秒だけ待ってみる。で、『これ、自分の言葉か?』って確認する。合ってたら出す。違う気がしたら、少しだけ足す」
「足す、ですか」
「はい。全部変えなくていいんです。上司向けの答えに、自分の言葉を一個だけ足す。それだけで、だいぶ変わると思います」
川田はメモを取っているようだった。画面の外に視線が動いている。
「……なんか、そういうことだったんですね」
「そういうことだったんだと思います」
「ありがとうございます。なんか、すっきりしました」
「良かったです」
通話を切って、椅子の背もたれに体を預ける。
と思ったら、そのまま少し後ろに倒れすぎた。
あぶない。
川田の話は、構造としてはシンプルだった。
正しく振る舞うことを繰り返すうちに、振る舞いが先に出るようになって、本音の在処が見えなくなる。よくある話ではある。
よくある話ではあるんだけど。
僕は少しだけ、さっきの自分の言葉を反芻していた。
自分が考えて出したのか、勝手に出てきたのかが、だんだん分からなくなる。
これ、ちょっとだけ、他人の話じゃない気がする。
書きたいのはSFだ。それは変わっていない。銀河の端っこで、誰かが誰かと出会う話。時間の流れ方が違う星で、すれ違い続ける二人の話。そういうものが書きたくて、投稿を始めた。
でも気づいたらラブコメを書いていた。
最初は試しに、一本だけ書いてみたんだ。MTFの女の子が主人公で、幼馴染と少しずつ距離を縮めていく、割とよくある構成の話。自分でも書けるもんだなと思いながら投稿したら、SFより反応が来た。だから次もラブコメにした。また反応が来た。
今は、ラブコメを書くのが普通になっている。
嫌いじゃない。ただ、これが最初から書こうとしていたものかというと、そうじゃない。
反射、というやつかもしれない。
「随分と静かでしたね」
AXISが言う。
「考えてた」
「珍しいですね」
「いつも考えてるけど」
「声に出さない考え方をしていました」
「まあ、そうかもしれない」
「川田さんの話、聞いてた?」
「概要は」
「どう思った」
「川田さんの問題は整理できましたね」
「うん」
「ただ」
「ただ?」
「あなたが川田さんの話をしている時、どこかで自分の話をしていましたね」
椅子が少しだけ軋む。
「そういうこと言うのやめて」
「事実の確認です」
「確認しなくていい事実もある」
「そうですか」
「そうです」
モニターの前で、ふうと息を吐く。
べつに図星を指されたわけじゃない、たぶん。ただ、少しだけ、自分の中に引っかかりができたような感じがした。
正しく振る舞うことで成立している、という状態。
読者が喜ぶものを書くことで続けている、という状態。
それに、名前がつきかける。
つきかけたところで、僕はそれをそっと棚の上に置いた。今日のところは。
「AXIS」
「はい」
「ご飯なに食べたいと思う?」
「私は食事をしません」
「分かってて聞いてるんだけど」
「では答えようがありません」
「そうだな」
冷蔵庫を開けに行く。たいしたものは入っていない。卵と、ハーフベーコンと、昨日の残りのご飯。
取り出しながら、うっかり卵を一個落とした。
割れた。
しばらく床を見てから、まあいいかと思って、雑巾を取りに行く。
フライパンを火にかけながら、さっきの川田の顔を思い出す。
最後に「すっきりしました」と言っていた。本当にすっきりしたのかどうかは分からないけれど、少なくとも、引っかかりに名前がついた顔をしていた。
名前がつくと、少し楽になることがある。
楽になる、だけじゃなくて、厄介になることもあるけれど。
卵が一個減ったので、チャーハンには少し足りないかもしれない。スクランブルエッグにしようと思って、また割ろうとしたら、今度はうまく割れなくて殻が入った。
箸で取り除きながら、まあそういう日もある、と思う。
今夜の飯はスクランブルエッグと残りのご飯にする。それだけで十分だ。
