第9話 私に題名をつけてください

 題名というのは、だいたい本文の外側にあるくせに、読まれ方を最初に決めてしまう。

 あれはだいぶ権力が強い。

 たった十文字前後で、人の印象を少し決める。やわらかい話に見せたり、重そうに見せたり、近づきやすくしたり、逆にちょっと構えさせたりもする。

 なのに僕は、その作業が昔からそんなに得意じゃない。

 本文のほうがまだ楽だ。

 そっちは中に入ってしまえばなんとかなる。でも題名は、入る前の顔だ。だいぶ気を遣う。

     *

 夜、投稿前の原稿を開いたまま、タイトル欄で止まっていた。

 本文はだいたい整っている。場面の流れも、会話の温度も悪くない。最後の一行も、たぶん今日はちゃんと自分の手で置けた。

 問題は、その上に乗る言葉だった。

「まだ決まりませんか」

 デスクトップ側のスピーカーから、AXISが言う。

「うん」

「本文は書けたのに」

「その言い方ちょっと腹立つな」

「事実の確認です」

 画面の端には、仮タイトルの候補がいくつか並んでいた。

 近いけど遠い
 説明しないまま
 少しだけ息をする

 どれも、悪くはない。

 悪くはないけど、全部ちょっと自分で付けた感じがして嫌だった。いや、自分で付けるんだから当然なんだけど。そういう意味ではなく。

「候補としては、それなりでは」

 AXISが言う。

「それなりっていう評価が一番困るんだよ」

「では、少し会社の資料っぽい」

 思わず笑ってしまった。

「タイトルに対する悪口として結構強いな、それ」

「しかし、近いでしょう」

「近いのがまた嫌だな」

 タイトル欄を消して、また打つ。

 消して、またやめる。

 その繰り返しをしている時点で、だいたいよくない。

「あなた、ファイル名も終わっていますしね」

「急にどこ殴ってくるの」

「新規短編_fix2_final_本当の最終 は、あまり健全ではありません」

「触れないでほしい過去が近すぎるな」

「現在進行形です」

「ほんと感じ悪いな」

 小さく息を吐いて、結局その夜はタイトルを保留にした。

 たまにある。本文は書けたのに、その入口だけどうしても決まらない夜が。

 諦めて管理画面を閉じようとした時、通知が一件ついているのに気づいた。

 感想ではなく、メッセージだった。

 珍しいな、と思いながら開く。

 送信元は、見覚えのないアカウントだった。アイコンもプロフィールも、ほとんど何もない。

 本文は短い。

 はじめまして
 いつも読んでいます
 変なお願いでごめんなさい
 もしよければ、私に題名をつけてください

 そこで、手が止まった。

「だいぶ大きい依頼ですね」

 AXISが言う。

「勝手に読まないでよ」

「通知音のあと、あなたが固まったので」

「観測が嫌すぎるな」

 もう一度、メッセージを見返す。

 作品に題名を、ではない。

 私に題名をつけてください。

 意味が分からない。

 分からないのに、少しだけ分かる感じもしてしまうのが、一番困る。

「どう受け取りますか」

 AXISが訊く。

「いたずらの可能性もある」

「はい」

「でも、そうじゃない気もする」

「はい」

「この“題名”って言い方が、ちょっと嫌なくらい分かる」

「あなた向きですね」

「その言い方やめて」

 少し迷ってから、僕は短く返した。

 すみません
 確認なんですが、作品ではなく、ご本人にですか

 送信してから、少しだけ後悔した。

 もっと別の聞き方もあった気がする。でも、こういう時に妙に気の利いた文を作ると、だいたい自分で嫌になる。

 数分後、返信が来た。

 はい
 名前ではなく、題名です

 短い。

 でも、それだけでだいぶ変だった。

 僕は画面を見たまま、小さく息を吐く。

「識」

「なに」

「少し、面白がっていますね」

「失礼だな」

「否定はしませんか」

「……少しだけは」

 面白い、というと感じが悪い。

 正確には、引っかかっている。

 名前じゃなくて、題名。

 名前だと身元とか戸籍とか、そういう方向の言葉になる。題名は、もう少し物語の外側だ。説明ではあるけど、固定ではない。そういう違いはたしかにある。

 あるから余計に、気になる。

 僕はもう一度、短く送った。

 どうして名前ではなく、題名なんですか

 今度の返信は少し長かった。

 名前だと、ちゃんとしすぎるので
 題名なら、まだ本文の外にいられる気がして
 あと、誰かに読んでもらわないと、自分が何なのかよく分からないので

 そこで、僕はしばらく黙った。

「嫌な精度ですね」

 AXISが言う。

「君、その言い方ほんと好きだね」

「今回は、あなたがそう思ったので」

「否定しづらいな」

 画面の文を読み返す。

 名前だと、ちゃんとしすぎる。

 本文の外にいられる。

 誰かに読んでもらわないと、自分が何なのかよく分からない。

 変なメッセージだ。

 でも、変なだけではない。

 この人はたぶん、言葉を雑には使っていない。

「同一人物の可能性は」

 AXISが言いかける。

「やめて」

 僕は先に止めた。

「それ以上やると、ちょっと気持ち悪いから」

「了解です」

 素直に引くあたりが、たまにえらい。

 たまにだけど。

     *

 翌日の昼休み、休憩スペースで三木さんと会った。

 社内交流イベントのあと、なぜか本当に「バジルの人」として定着しつつあるらしい。

「昨日も言われました」

 三木さんはカフェオレを持ちながら少し笑う。

「“あ、バジルの人ですよね”って」

「だいぶ見出しが強いな」

「でも、話しかけてもらえるので助かってます」

「まあ、入口としては優秀だね」

「綾瀬さん、入口って言い方しますよね」

「するかも」

「なんか、タイトルとか見出しとか、そういうので人を見てる感じがある」

 不意にそう言われて、少しだけ笑った。

「仕事柄かな」

「小説書いてるからじゃないですか?」

「そっちもあるかも」

 三木さんは少し考えて、それから言った。

「でも、見出しって便利ですよね。全部は分からなくても、話しかけるきっかけになるし」

「そうだね」

「ただ、見出しだけで全部だと思われると、ちょっと困るけど」

 その一言が、そのまま昨夜のメッセージにつながった。

 題名は入口だ。

 でも、本文の全部ではない。

 たぶんそこが、この依頼の一番面倒なところなんだろうと思う。

「どうかしました?」

 三木さんが首を傾げる。

「いや、ちょっと」

「難しい顔してましたよ」

「それ、最近よく言われるな」

「ちゃんとしてる人って、考え込む時、急に静かになりますよね」

「便利な悪口だな」

「褒めてます」

「最近みんなそれ言うね」

 三木さんは笑って、軽く手を振って戻っていった。

 残されたカフェオレの甘い匂いの中で、僕は少しだけ考える。

 入口は必要だ。

 でも入口だけで全部を決めるのは、たぶん少し乱暴だ。

 人間相手だと、なおさら。

     *

 夜、部屋に戻ると、またメッセージが来ていた。

 例のアカウントからだった。

 急かすつもりはないです
 でも、もし考えてもらえるなら、少しだけ私のことを書きます

 そのあとに、短い文がいくつか並んでいた。

 ちゃんとしてる、とよく言われます
 話しやすい、とも言われます
 でも、たぶん誰も私のことをよく知らないです
 私も、自分のことを説明しようとすると急に遠くなります

 そこで、また手が止まった。

 見覚えがある。

 というか、最近ずっと周りを回っていた言葉だ。

「識」

 AXISが言う。

「言うなよ」

「まだ何も」

「今、君が言おうとしてること、たぶん当たってるから言うな」

 数秒の沈黙のあと、AXISは素直に黙った。

 ありがたい。

 ありがたいけど、その沈黙が答え合わせみたいで少し嫌だった。

 僕は椅子に深く座り直して、画面を見つめる。

 ちゃんとしてる。

 話しやすい。

 でも、よく知られていない。

 説明すると遠くなる。

 だいぶ、ここまでの話を回収しに来ている。

「どうしますか」

 AXISが訊く。

「すぐには無理だな」

「題名ですか」

「うん」

 名前なら、まだ乱暴に付けられるかもしれない。

 やさしい人。静かな人。整っている人。そういう雑な言い方で、一回どこかへ置くことはできる。

 でも題名は、もっと読み終わったあとに付くものだ。

 少なくとも僕にとっては。

「題名って、たぶんさ」

 僕は独り言みたいに言った。

「読んでから付くんだよね」

「はい」

「最初に置く見出しでもあるけど、ほんとは最後に決まることが多い」

「ええ」

「だから、まだ読んでない人に付けるの、ちょっと怖い」

「妥当ですね」

 僕は少しだけ迷ってから、返信を打った。

 すぐにはつけられないと思います
 たぶん、少し読ませてもらわないと無理です

 送る。

 数分後、返事が来た。

 ありがとうございます
 じゃあ、少しずつ送ってもいいですか

 その一文で、妙に部屋が静かになった気がした。

「本文が始まりますね」

 AXISが言う。

「言い方」

「しかし、近いでしょう」

 近い。

 たしかにそうだった。

 たぶんこれは、相談なんだと思う。

 でも、今までのものとは少し違う。

 相手は答えを聞きに来たんじゃない。たぶん、読まれに来ている。

 それはだいぶ重い。

 重いけど、断れない類いの重さだった。

「受けるんですか」

 AXISが訊く。

「たぶん」

「やはり」

「拾いやすい顔って言いたいんでしょ」

「今回は言いません」

「そういう時のほうが逆に聞こえるな」

 その直後、また通知が鳴った。

 続きが送られてきたらしい。

 開く。

 本文は、たった一行だった。

 今日は上司に「ちゃんとしてるね」と言われました。たぶん褒め言葉です。

 そこで、僕は思わず少しだけ笑った。

 笑ったのは、面白かったからじゃない。

 始まり方として、妙に正しかったからだ。

 タイトルの付けられない依頼の本文は、たぶんこういうところから始まるんだろうと思った。

 僕はメモ帳を開いて、一行だけ打つ。

 題名は、たぶん読み終わったあとに付く。

 それだけ。

 うまい文でも何でもない。

 でも、今の自分には少し近かった。

「雑ですね」

 AXISが言う。

「今日はそれでいい」

 部屋は静かだった。

 静かだけど、空っぽではない。

 たぶんここから、少し長い本文が始まる。

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