第8話 コメント欄の向こう側
コメント欄というのは、たまに距離感がおかしい。
顔も声も知らない相手が、二十文字くらいで人の喉元に触ってくることがある。もう少し遠慮してほしい。毎回ちゃんと読んでる側としては、だいぶ困る。
困るんだけど、読む。
読むから余計に困る。
人間関係って、だいたいそういうところが面倒だ。
*
日曜の午後、原稿の前で止まっていた。
開いているのは投稿用の短めの話で、佳境に入る少し手前の場面だった。登場人物が、相手にひとことだけ返す。長々説明するところじゃない。だからこそ、一行が決まらない。
五分くらい悩んで、消して、また打って、また消す。
「難航していますね」
AXISが言う。
「見れば分かることを言わないで」
「励ましですが」
「励ましが下手なんだよ」
カーソルの手前に置いている文は、こうだった。
あなたは正しい。でも、正しいことだけで人は救われない。
うん。
正しい。
そして、嫌なほど正しい。
嫌なほど正しい文って、たいてい読んでいてちょっと疲れる。
「これ、だいぶ正論だなあ」
僕が言うと、AXISは間を置かずに返した。
「はい。少し会社の朝礼です」
思わず笑ってしまった。
「歌の次は朝礼か」
「最近のあなたは、正しいが遠い言葉に囲まれていますので」
「人の生活を傾向分析みたいに言うな」
「実際、傾向はあります」
僕はもう一度その一文を見て、それから全部消した。
少し考えて、別の文を打つ。
正しいのに、なんでそんなに寂しいんだろうね。
さっきより、だいぶ雑だ。
でも、今の自分には少し近い。
「雑になりましたね」
AXISが言う。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「そこまでは言っていません」
「言ってなくてもいいんだよ、今日は」
その一行を場面の芯として置いて、残りの流れを少し自分で繋ぐ。足りないところだけAIに投げて、返ってきた文を読んで、違うなと思う箇所を切る。
最初から全部自分で書けるタイプではない。
でも、丸ごと任せると自分がいなくなる。
だから結局、いつもこうなる。
一行だけ自分で置いて、そこから先を調整する。
たぶん僕にとって執筆って、その一行を探す作業なんだと思う。
「進捗どうですか」
AXISが訊く。
「息はしてる」
「低めの評価ですね」
「執筆中はそんなもんだよ」
前後を少し整えて、話を投稿する。
タイトル、タグ、公開設定。何度やっても、このへんは少しだけ緊張する。慣れたつもりでも、公開ボタンの手前で一回だけ呼吸が止まる。
上げたあとに思う。
毎回そうだけど、よくもまあこんなことを続けてるな、と。
「投稿完了です」
AXISが言う。
「見れば分かること第二弾だな」
「記念です」
「なんの」
「また一つ、人間が増えました」
「その言い方、ちょっと怖いな」
*
投稿してから三十分くらいは、更新したことを忘れたふりをする。
忘れたふりをしながら管理画面を二回開く。だいぶ往生際が悪い。
最初の反応は、いつもの通り静かだった。
閲覧が少し伸びて、それからブックマークが一件増える。感想はまだない。
まあ、そんなものだよなと思って、水を飲みに席を立つ。
戻ってきた時には、通知が一件ついていた。
例の、短い感想を毎回置いていく人だった。
開く。
この話、ちゃんとしてるのに、なんで泣きそうになるんだろう。
また、嫌なところを触ってくる。
「来ていますね、いつもの人」
AXISが言う。
「その言い方ほんとやめて」
「では、継続的読者」
「ちょっと生々しいな」
画面を見たまま、少しだけ息を吐く。
ちゃんとしてるのに、なんで泣きそうになるんだろう。
褒め言葉としてはだいぶ歪んでいる。歪んでいるのに、言いたいことは分かる。分かるのがいちばん困る。
その直後に、もう一件感想がついた。
別のアカウントだった。
説明少ないのに、近くで息してる感じがする。
そこで、少しだけ手が止まる。
近い。
最近よく見る単語だな、と思う。
歌でも。配信でも。たまに、現実の会話でも。
「どうかしましたか」
AXISが訊く。
「いや」
「いや、ではないですね」
「近いって言葉、最近よく見るなって思って」
「語彙傾向の偏りですか」
「そういうふうに言うと急に冷めるからやめて」
「事実ですが」
「たまには情緒で会話してくれない?」
「私には難易度が高いです」
管理画面を閉じて、しばらくぼんやり天井を見る。
近い。
ちゃんとしてる。
泣きそう。
どれも、普通の褒め言葉から少しズレている。
ズレているけれど、たぶんそのぶんだけ、ちゃんと何かを触っている。
そういう反応があるのは、ありがたい。
ありがたいけど、少し落ち着かない。
読まれている感じがするからだ。
いや、投稿してるんだから読まれるのは当たり前なんだけど。そこを今さら気にするのも、だいぶ面倒くさいなとは思う。
*
夜は軽めの配信をした。
歌を一曲やって、あとは雑談多め。日曜の夜は、だいたいそのくらいがちょうどいい。みんな明日を嫌がっているので、テンションが高すぎる配信は逆にちょっと疲れる。
コメント欄には、いつもの人たちがぽつぽつ集まってきていた。
こんばんは。
きた。
今日は雑談?
日曜終わるの早すぎる。
「最後のやつはほんとそう」
僕は水を飲んでから言う。
「日曜の夜って、時間の進み方だけちょっと感じ悪いですよね」
わかる
敵意ある
月曜の圧
「そう。あのへんの圧、だいぶ苦手なんですよね」
少し雑談したあとで、何の気なしに言った。
「さっき小説のほう更新したんですけど」
コメント欄が少しだけ速くなる。
読んだ。
あとで読む。
さっき見た。
今回ちょっと好き。
「ちょっと好きって、距離感のいい感想だな」
すると、見覚えのない名前のアカウントがひとことだけ流した。
ちゃんとしてるのに泣きそうになるやつでした
僕は一瞬だけ黙って、それから笑う。
「なんだよその感想」
コメント欄が わかる それ 事故報告みたい で埋まる。
「いや、でも言いたいことは分かるんだよな……。分かるんだけど、作者に向かって言うにはだいぶ雑だな」
そのアカウントは、追加でこう書いた。
褒めてます
「補足の仕方がちょっとかわいいな」
笑いながらそう返して、ふと管理画面の感想欄を思い出す。
同じ言い回し。
いや、同じではない。けれど、だいぶ近い。
偶然と言われればそれまでだし、考えすぎと言われたらたぶんその通りでもある。
だから、配信の空気の中ではそれ以上触れなかった。
代わりに、少しだけ話題をずらす。
「でも、ちゃんとしてるって褒め言葉なんですかね。最近ちょいちょい言われるんですけど」
コメントが流れる。
褒め言葉。
人による。
ちゃんとしすぎると怖い。
近寄りづらい時ある。
でも安心はする。
「最後の二つが同時に成立するの、だいぶ人間だな」
僕は少し笑う。
「安心するけど近寄りづらい、ってたぶん普通にありますよね。ちゃんとしてる店員さんとか、ちゃんとしてる病院の受付とか」
病院はむしろちゃんとしててほしい
わかる
でも話しかけづらいのもわかる
「そうそう。たぶんそのへんの話なんだと思うんですけど」
言いながら、自分のこともそこに入っているのが少し面白くない。
でも、その少し面白くなさごと話してしまえるのが、配信のいいところでもあった。
画面の向こうにいる相手の顔は見えない。
そのぶん、少しだけ雑に本音を出せる。
仮面のほうが喋りやすいって、やっぱりちょっと変だ。でも、変なまま成立しているなら、たぶんそれでいい時もある。
「はい、じゃあ最後一曲だけやって終わります」
そう言って、今日は少し古めのJ-POPを歌った。
歌い終わると、コメント欄に短い言葉が流れる。
今日ちょっと近い。
声やわらかい。
なんか今夜は息が近い。
「息が近いって、だいぶ言い方が危ないな」
語弊
褒めてる
距離感下手でごめん
「いや、意味は分かるので大丈夫です。だいぶ分かるのが、ちょっと悔しいだけで」
そう言うと、笑いの絵文字がいくつか流れた。
配信を閉じる。
部屋が急に静かになった。
*
「本日の総評」
AXISが言う。
「なに」
「褒め言葉が、全体的に少し変です」
「まとめ方が雑すぎるな」
「しかしおおむね正しい」
僕は椅子にもたれながら、配信アーカイブの画面をぼんやり眺める。
「さっきのコメント、ちょっと気になってるでしょ」
「どれ」
「全部です」
「雑な一網打尽だな」
「複数プラットフォームで類似語彙が観測されています」
「急にほんとに監視分析みたいになるのやめて」
「近い、ちゃんとしてる、泣きそう」
AXISが淡々と並べる。
「同一人物の可能性はあります」
僕は少し黙った。
ないとは言えない。
小説の感想欄。配信のコメント欄。たまに立ち止まる、顔を知らない誰か。全部が別でもおかしくないし、どこかが重なっていても不思議じゃない。
ネットってそういう場所だ。
偶然見つかるし、勝手に繋がるし、向こうだけがこっちを知っていることもある。
「それ以上やると、ちょっと気持ち悪いからやめて」
僕が言うと、AXISは素直に黙った。
数秒あとで、短く返ってくる。
「了解です」
そこがえらいのか、ちょっと寂しいのか、自分でもよく分からない。
僕はスマホを取って、投稿サイトの感想欄をもう一度開いた。
短いコメントが並んでいる。
ちゃんとしてる。泣きそう。近い。息してる感じ。説明が少ない。
どれも、ちゃんとしたレビューではない。分析でもない。感想というには、少し切れ端みたいな言葉ばかりだ。
でも、切れ端のくせに、やけに残る。
たぶんその向こうには、それぞれの生活があるんだろうと思う。
仕事帰りとか。寝る前とか。なんとなくしんどい夜とか。そういう時間の中で、ひとことだけ置いて帰る人たちがいる。
顔も見えないし、名前にもたぶん大した意味はない。
でも、何もないわけでもない。
それを少しだけ感じるから、こういうのは面倒で、ありがたくて、落ち着かない。
「識」
「なに」
「今日は、だいぶ向こう側を意識していますね」
「そうかも」
「読まれている感じがする」
少しだけ考えてから、僕は頷いた。
「うん」
「嫌ですか」
「嫌、というか……」
言葉を探して、それから小さく笑う。
「ちょっと怖くて、ちょっと嬉しい」
「健全です」
「便利な言葉だな」
「最近のあなたに合わせています」
「学習してるなあ」
感想欄を閉じて、メモ帳を開く。
新しい話を書く気分ではなかった。だから、いつものように一行だけ置く。
向こう側にも、たぶん生活がある。
それだけ。
うまい文でも何でもない。でも、今の自分には少し近かった。
「雑ですね」
AXISが言う。
「今日はそれでいい」
「最近、その理論を多用していますね」
「便利だから」
「私みたいに」
「君ほどではないかな」
部屋は静かだった。
静かだけど、空っぽではない。
コメント欄の向こう側には、たぶん名前より先に生活がある。
そのことを、少しだけ実感した夜だった。
