第7話 意味を与えられない関係

 関係に名前があると、だいたい説明が楽になる。

 友達。恋人。仕事相手。知人。元同級生。配信のリスナー。たまに会う人。最後のほうはもう分類を諦めてる感じがあるけれど、それでも何もないよりは少し楽だ。

 人は名前があると安心する。

 少なくとも僕はそうだ。

 だから逆に、名前がつかない関係は、それだけで少し面倒くさい。

 特別だから面倒なんじゃない。

 面倒だから、特別に見えてしまうだけだ。

     *

 金曜の夜、原稿を開いたまま五分くらい何も書けずにいた時、スマホが震えた。

 見れば、雨宮透からだった。

 何週間ぶりかは数えようと思えば数えられる。数えないけど。数えた時点でだいぶ負けた感じがするので。

 メッセージは短い。

 今、近くいるんだけど
 少し会える?

 相変わらず、前置きが薄い。

 薄いくせに、断りにくい。

「例の人ですね」

 デスクトップ側のスピーカーから、AXISが言った。

「例の人、みたいな分類やめて」

「未整理案件」

「もっと嫌だな」

 僕はスマホの画面を見下ろしたまま、小さく息を吐く。

 断る理由は、別に作れる。疲れてるとか、原稿があるとか、配信準備があるとか。どれも完全な嘘ではない。

 ただ、この手の連絡に普通に行けてしまう自分が、一番説明しにくい。

「行くんですか」

 AXISが訊く。

「たぶん」

「即答しませんね」

「そこまで分かりやすい?」

「かなり」

「便利だなあ」

「今回は褒め言葉として受け取っておきます」

 僕は短く返した。

 いいよ
 どこいる?

 すぐに既読がつく。

 駅前のカフェ
 遅くまでやってるとこ

 だいぶざっくりしているけれど、分かった。

 こういう雑な指定で伝わるあたりが、また厄介だった。

     *

 店に入ると、透は窓際の二人席に座っていた。

 派手な格好ではない。暗めのコートに、まとめた髪。落ち着いた雰囲気で、人当たりもやわらかい。近寄れない感じはないのに、なぜか踏み込みきれない。

 目が、たぶんそういう目をしているんだと思う。

 僕に気づくと、透は少しだけ手を上げた。

「ごめん、急に」

「今さらだね」

「それはそう」

 向かいに座る。店内は静かすぎず、うるさすぎず、こういう微妙な会話には都合がよかった。

 透はカップを持ち上げながら、少し笑う。

「相変わらず最初の二言くらい、ちょっと感じ悪いよね」

「誤解だな」

「そうかな」

「だいぶ」

「でも来てくれる」

「そこまで含めて誤解かも」

「便利な人だ」

「いまの、ちょっと嫌だな」

 僕がそう言うと、透は声を立てずに笑った。

 こういう軽いやり取りは、昔からわりと自然にできる。

 会っている時間は、だいたい普通に楽しい。

 そこが余計に面倒だった。

「で、今日は何」

 僕はメニューも見ずに水を一口飲む。

「世界の終わりではなさそうだけど」

「そこまでじゃないよ」

「なら大丈夫か」

「基準が雑」

「君が呼ぶ時って、たまに文脈が飛ぶから」

 透は小さく肩をすくめた。

「今日、ちょっと仕事しんどくて」

「うん」

「別に何か大きいことがあったわけじゃないんだけど、なんか、まっすぐ帰る気分じゃなくて」

「なるほど」

「で、識ならまあ、いいかなって」

 その言い方が、いかにも透だった。

 重くない。軽すぎもしない。頼っているのに、依存とまでは言わせない。そういう、ちょうどいい場所に言葉を置くのがうまい。

「ずいぶん都合のいい呼ばれ方してる気がするな」

 半分冗談で言うと、透は首を傾げた。

「そう?」

「そうだよ」

「でも、識も来るじゃん」

「それを今、自分で言うのちょっと強いな」

「ごめん」

 言いながら、あんまり悪いと思っていない顔だった。

 その感じも、よく知っている。

 悪意はない。そこが一番面倒だ。

 店員が来て、僕は適当にコーヒーを頼んだ。透は追加でチーズケーキを頼んでいた。こういう時にちゃんと甘いものを頼めるところが少し羨ましい。

「で、何があったの」

「うーん……」

 透は少し考えるみたいに視線を落として、それから言った。

「なんか、ちゃんとしなきゃって話が多くて疲れた」

「それは分かる」

「仕事でも、友達でも、家族でも、ちゃんと返して、ちゃんと気を遣って、ちゃんと説明して、みたいな」

「社会ってだいたいそういう圧あるからね」

「識、そういうの得意そうじゃん」

「得意そうに見えるだけかも」

「でも実際、そこそこやれてるでしょ」

「まあ、やるしかないし」

 透は少しだけ笑った。

「そういうとこ、えらいよね」

「急に他人行儀だな」

「褒めてるのに」

「褒め方が、たまに距離を取ってくるんだよ」

「識ってそういうの気にするよね」

「するよ。人間だから」

「そこ、ちょっと面白い返しだった」

「ありがとうございます」

 話しているうちに、透の表情は少しずつ緩んでいった。仕事の愚痴と呼ぶほどではない、小さい引っかかりをいくつか話して、それに僕が相槌を打って、たまに軽く返す。

 会話そのものは、たぶんうまくいっていた。

 そういう時間だけ切り取れば、普通に近い二人に見えるんだろうと思う。

 そこまで考えて、自分で少し嫌になる。

 またそうやって、外から見た構図に直そうとしている。

「識」

「なに」

「今ちょっと黙った」

「考えてた」

「考えすぎじゃない?」

 透は軽く言った。

 軽く言ったのに、妙に残る。

「便利な言葉だな、それ」

「実際そうだからね」

「否定しないんだ」

「しないよ。だってほんとにそうだし」

 チーズケーキが運ばれてきて、透はその端をフォークで少しだけ削るように取った。食べ方まで静かだな、と思う。

 静かなのに、遠い。

「たまに思うんだけど」

 僕はカップを持ったまま言った。

「透って、困った時だけ僕のこと思い出してない?」

 言ってから、少しだけ後悔した。

 聞き方が、思っていたより直線だった。

 透は目を瞬かせて、それから視線を少しだけ落とした。

「……別にそんなつもりじゃないよ」

 ああ、と思う。

 その答えだろうなと、たぶん最初から分かっていた。

 一番ずれるけど、一番透らしい返事だった。

 利用しているつもりはない。

 ただ頼っているだけ。

 ただ、なんとなく連絡しているだけ。

 でも結果としては、そう見える。

 それがたぶん、この関係の一番面倒なところだった。

「うん」

 僕は曖昧に頷く。

「たぶん、そうなんだろうね」

「なんか、責めてるみたいに聞こえたならごめん」

「責めてるっていうか」

 言葉を探して、少しだけ笑う。

「まあ、だいぶ反応に困ってはいる」

 透も少し笑った。

「識、やっぱり面倒だね」

「知ってる」

「そこ、自覚あるんだ」

「かなりあるよ」

 少しの沈黙が落ちる。

 店のBGMがやけにきれいに聞こえた。こういう時の音楽って、いつも少しだけ感じが悪い。空気を読んでるんだか読んでないんだか分からないので。

 透が先に口を開いた。

「でもさ」

「うん」

「識って、優しいよね」

 それは、たぶん一番ずるい言葉だった。

 褒めているのに、答えになっていない。

 近づけるのに、何も決めない。

 言われた側だけが、少しだけ立ち止まる。

「……それ、便利な返しだな」

 僕が言うと、透は困ったように笑った。

「そうかな」

「そうだよ」

「でも、ほんとにそう思ってる」

「それも分かる」

「分かるんだ」

「分かるけど、納得は別」

 そこまで言ってから、自分で少し驚く。

 ああ、そうか。

 たぶん僕は、透のことを理解はしているんだと思う。

 この人は、誰かを雑に傷つけたいわけじゃない。ただ、自分に必要な距離を感覚で取っているだけだ。

 近づく時は近づくし、引く時は引く。その判断に、きれいな説明をつけない。

 だから、僕みたいに説明で関係を扱いたい人間とは、噛み合いきらない。

 納得できないだけで。

「識って、たまに急に難しい顔するよね」

 透が言う。

「今まさにしてる?」

「してる」

「最悪だな」

「そこまでではないけど」

 そう言って透は笑った。

 会話はそれ以上深くならなかった。

 ならなかったというより、たぶん透がそうならないように少しだけ舵を切った。

 仕事の話に戻って、最近観た映画の話になって、途中で大河から意味の分からないスタンプが送られてきて、それを見せたら透が笑った。

 その笑い方が自然なぶん、さっきの話がますます宙に浮いた。

     *

 店を出る頃には、夜風が少し冷たくなっていた。

「今日はありがと」

 透はそう言って、コートの襟を軽く押さえた。

「うん」

「ちょっと楽になった」

「それはよかった」

「またそのうち連絡する」

 その言い方も、透らしい。

 約束ではない。でも、完全に終わらせもしない。

「そのうち、ね」

 僕が言うと、透は少しだけ笑った。

「そう。そのうち」

 手を振って、透は駅のほうへ歩いていく。

 引き止める理由は、なかった。

 たぶん、引き止め方も。

 後ろ姿が人混みに溶けるまで見送って、それから僕も反対方向へ歩き出した。

 特に何かが壊れたわけじゃない。

 何かが始まったわけでもない。

 なのに、妙に疲れる。

 こういうのが一番厄介だな、と思う。

     *

 部屋に戻ると、いつもの低い駆動音が迎えてくれた。

 上着を椅子に掛けて、靴を脱いで、そのまま少しだけ立ったままになる。

「おかえりなさい」

 AXISが言う。

「ただいま」

「どうでしたか、未整理案件」

「まだその分類で行くんだ」

「しっくり来ているので」

「こっちは来てないよ」

 デスクに座って、スマホを伏せる。

 通知はまだ来ていない。

 来なくても不思議じゃないし、来ても不思議じゃない。そういう半端な状態が、いちいち落ち着かない。

「分析しますか」

 AXISが言う。

「したくない」

「珍しいですね」

「今日は、分析したところで楽にならないの分かってるから」

「理解はしているが、納得はしていない」

「さっきの会話、勝手に要約するのやめて」

「正確でしたので」

「嫌な正確さだな」

 椅子にもたれて、少しだけ天井を見る。

「利用、ではないんだよ」

「はい」

「悪意もたぶんない」

「はい」

「でも、じゃあ何かって言われると、それも分かりにくい」

「低頻度高密度の関係ですね」

「言い方がだいぶ通信障害なんだよ」

「整理するとそうなります」

「だから、そういうとこだって」

 少しだけ笑う。

 笑ったあとで、すぐに消える。

「僕、たぶんさ」

「はい」

「人間関係に名前がついてるほうが安心するんだよね」

「ええ」

「友達とか、恋人とか、そういうので雑にでも置けるほうが、まだ楽で」

「雨宮透は、その棚に入りにくい」

「入りにくいっていうか、入れようとした瞬間、たぶん壊れる」

 それを口にして、自分で少し驚く。

 でも、たぶんそうだった。

 名前がつけばすっきりすると思っているのに、名前をつけた瞬間に終わる関係もある。

 そういうのは、だいぶ性格が悪い。

 人間関係のほうが。

「それは、名前がないから続いているのでは」

 AXISが言う。

「可能性としてはあるね」

「不本意そうです」

「そりゃね」

 少しの沈黙のあとで、スマホが震えた。

 画面を見る。

 透からだった。

 今日はありがと
 助かった
 またね

 それだけ。

 短い。

 短いくせに、妙に切れない。

「来ましたね」

 AXISが言う。

「来たね」

「どうしますか」

「どうもしない」

 そう言ってから、少しだけ迷って、短く返す。

 こちらこそ
 おつかれ

 送信する。

 既読はすぐについた。

 返信は来なかった。

 まあ、そうだろうなと思う。

 その予想が当たることに安心するのか、少し寂しいのか、自分でもよく分からない。

「識」

「なに」

「今日はだいぶ、ちゃんと面倒くさそうです」

「日本語が変だな」

「褒めています」

「どこを」

「人間らしさを」

 僕は小さく息を吐いて、メモ帳を開いた。

 いきなり本文を書く気分ではなかったので、いつものように雑な行を置く。

 名前がないものほど、切りにくい。

 それだけ。

 うまいとも思わないし、文学っぽいとも思わない。

 でも、今の自分には少し近かった。

「雑ですね」

 AXISが言う。

「今日はそれでいいんだよ」

「便利な理論です」

「人間関係よりは、だいぶ扱いやすい」

 部屋は静かだった。

 静かだけど、空っぽではない。

 理解できるのに納得できない、というのは、たぶん人間関係の中でもかなり面倒な部類なんだろうと思う。

 透はたぶん、何も間違っていない。

 僕もたぶん、何も間違っていない。

 それでも、きれいに置ける場所が見つからない。

 そういう関係がある。

 あるのだとしたら、たぶん今夜考えるべきことは、それを無理に説明しきらないことなのかもしれなかった。

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