第6話 歌は、少し外れているほうが届く
歌が上手いことと、歌が届くことは、たぶん少し違う。
もちろん、下手すぎると普通に困る。音程は迷子になるし、リズムは家出するし、聴いてる側も「がんばれ」の気持ちが先に来る。
でも逆に、綺麗すぎると、たまに何も残らないことがある。
厄介だなと思う。
人間はだいたい、ちょうどいいところをすぐ通り過ぎる。
*
夜、配信用のカバー音源を触っていた。
波形が並んだ編集画面を前に、僕は何回目か分からないため息をつく。
Aメロのピッチ補正は軽く。Bメロは少しだけタイミングを寄せる。サビのハモりは薄く。やりすぎると途端に機械っぽくなるので、その手前で止める。止めるつもりで、だいたい毎回少し行き過ぎる。
「本日の議題」
AXISが言う。
「なに」
「その音源を、どこまで人間に見せかけるか」
「言い方が最低だな」
「失礼。どこまで自然に整えるか、でした」
「最低さはそんなに変わってないよ」
僕はマウスを動かして、補正前と補正後を交互に再生する。
補正前は少し揺れている。悪く言えば不安定。よく言えば、生きている。
補正後は綺麗だった。だいぶ綺麗。ちょっと腹が立つくらい綺麗だ。
「どっちがいいと思う?」
「用途によります」
「それ、だいたい全部そうだよね」
「正しいので」
もう一度サビを聴く。
高音の入り方が、補正後のほうが圧倒的に正しい。綺麗で、安心できて、文句もつけにくい。
ただ、さっきまであった“ちょっと息を詰めた感じ”が、きれいに消えていた。
「上手いんだけどなあ」
「はい」
「上手いんだけど、なんか、こう……」
「少し報告書に近いですね」
思わず笑ってしまった。
「歌に対する悪口としてかなり強いな、それ」
「しかし的確です」
「そうなんだよなあ」
補正後のテイクを止める。
上手い。ちゃんとしている。よくできている。最近このへんの単語に囲まれて生きている気がする。だいぶ不本意だ。
そのタイミングで、スマホが震えた。
見慣れない名前からのDMだった。
こんばんは
急にすみません
前に配信でコメント拾ってもらった者です
ちょっと相談してもいいですか
文面は丁寧だった。というか、ちょっと丁寧すぎた。困っている人の匂いがする。
内容によります
そう返すと、少し間があってから、音声ファイルが二つ送られてきた。
続けてメッセージ。
歌のMIXしてるんですけど
補正したら「それもう本人の声じゃなくない?」って言われて
正直どこまでやるのが普通なのか分からなくて
ズルしてるのかなって
僕は小さく眉を上げた。
「また拾いましたね」
AXISが言う。
「だいぶ他人事みたいに言うな」
「拾いやすい顔をしているので」
「それ一生言うつもり?」
「便利な定型句です」
送られてきたファイルを開く。
ひとつは仮ミックス前、もうひとつは完成版らしい。
イヤホンをつけて、最初のテイクから聴く。
若い声だった。少し細くて、ところどころ不安定。でも、サビに入る瞬間だけ、妙にぐっと来る。上手いというより、ちゃんと頑張って届こうとしている声だった。
次に完成版を再生する。
綺麗だった。すごく綺麗。ノイズも少ないし、音程も揃っているし、ハモりも整っている。ネットに上がっている歌ってみたとしては、かなり普通に強い。
ただ、同時に思う。
あ、これだいぶ磨いたな。
そして、少し磨きすぎたな、とも。
「どうですか」
AXISが訊く。
「うまくなってる」
「はい」
「でも、近くはなくなってる」
「はい」
その返事が妙に早くて、少しだけ腹が立つ。
「先に言うなよ」
「待っていました」
「感じ悪いなあ」
DMに返す。
時間あるなら通話でもいいですか
文章だとたぶん長くなります
すぐに既読がついて、ぜひお願いします と返ってきた。
*
通話の相手は、結城くんという大学生だった。
配信ではたまにコメントをしていて、歌ってみた動画も自分で上げているらしい。年齢のわりに言葉は落ち着いていたけれど、その落ち着き方が、ちょっと頑張って整えている感じだった。
『すみません、いきなり』
「いえ。相談としてはだいぶ僕の守備範囲に寄ってるので」
『守備範囲』
「最近この言い方、便利で」
『ああ……なんか、わかります』
少しだけ笑う気配が返ってくる。
緊張はしているけれど、ちゃんと会話はできる人らしい。
「音源、両方聴きました」
『はい』
「結論から言うと、ズルではないです」
『ほんとですか』
「うん。補正もMIXも、べつに悪いことじゃないので。化粧とか照明みたいなもので、見せ方を整えるのは普通です」
『はい』
「ただ、完成版はちょっと磨きすぎかもしれない」
通話の向こうで、息を呑む気配がした。
『やっぱり……』
「いや、悪くはないんです。普通に上手いし、完成度も高いです」
『でも』
「でも、最初のテイクにあった“この人が今ここで歌ってる感じ”は、少し薄くなってます」
しばらく、沈黙があった。
『それ、僕も、ちょっと思ってました』
「たぶん、サビの入りなんですよね」
『えっ』
「最初のテイク、サビに入る一瞬だけ、ちょっと息が詰まるじゃないですか」
『あ……はい』
「完成版だと、そこ綺麗に均されてるんです」
『そこ、めっちゃ直しました』
「ですよね」
思わず苦笑する。
分かりやすい。分かりやすいけど、その分、話は早い。
「直した結果、上手くはなってるんです。でも、頑張って届こうとしてる感じも一緒に薄くなってる」
『ああ……』
「たぶん、コメントした人が言いたかったのも、そこに近いと思います。“本人の声じゃない”っていうより、“本人が今そこにいる感じが薄い”」
結城くんは少し黙って、それから小さく言った。
『なんか、それ聞くとちょっと分かります』
「補正って、やりすぎると全部が“正解”になるんですよ」
『はい』
「で、歌って、正解するとたまに少し遠くなる」
『……それ、すごい嫌だけど分かります』
「嫌ですよね。だいぶ面倒なんですよ、このへん」
『じゃあ、どうしたらいいですか』
その問いに、僕は少しだけ画面を見た。
波形は開いたままだ。さっきまで自分の歌に対して抱いていた違和感と、だいぶ似ている。
「全部を荒くしろ、ではないです」
『はい』
「むしろ、ほとんどは整えていいと思う。でも、一番人が反応する場所だけ、少し生のまま残していいかもしれない」
『一番人が反応する場所』
「自分で、ここちょっと恥ずかしいなって思うところ」
『恥ずかしいところですか』
「うん。息遣いでも、少し遅れる入りでも、ほんの少し不安定な高音でも。そこ全部消すと、たぶん上手いけど遠い歌になります」
『……ああ』
「あと、ハモりも全部ぴったりだと、少し綺麗すぎるかも」
『それもやりました』
「やるよね」
『やります』
「やるんですよね、あれ」
そこで二人とも少し笑った。
笑ったことで、通話の緊張が少しだけほどける。
「じゃあ、僕が思うのは」
僕は続ける。
「補正した歌がズルなんじゃなくて、“不安なところを全部消したくなる気持ち”のほうが、たぶん強敵です」
『……ああ』
「僕も普通にあります」
『綾瀬さんもですか』
「あります。だいぶあります。むしろそっち寄りです」
『なんか、安心しました』
「安心材料が地味だな」
『でも、すごい大事です』
結城くんの声は、通話の最初より少しだけ自然になっていた。
「じゃあ、一回、サビの入りだけ戻してみてください」
『そこだけ』
「うん。あと、息が少し残るテイクを優先してもいいかも」
『やってみます』
「雑に言うと、上手さを一回だけ諦める感じです」
『雑ですね』
「今のは雑でした」
『でも分かりやすいです』
通話を切ったあと、僕は少しだけ椅子にもたれた。
「有益でしたね」
AXISが言う。
「たまにちゃんとそういうこと言うよね」
「たまにではありません」
「その自己評価の高さ、最近ますます人間っぽいな」
「悪影響でしょうか」
「わりと」
*
その週末、路上ライブに出た。
駅から少し離れた、いつもの場所。風は少し冷たいけれど、立ち止まる人がゼロになるほどではない。
機材を置いて、マイクを立てて、ギターのストラップを整える。
「本日の目標」
イヤモニ越しに小さくAXISの声が入る。
「なに」
「上手くやろうとしすぎない」
「それ、実行難易度高いんだけど」
「あなた比ではあります」
最初の一曲は少し固かった。
自分でも分かるくらい、きれいに歌おうとしていた。音を外さないように、変な癖を出さないように、ちょっとでも見栄えのいい声に寄せようとしている。
そういう時の歌は、だいたい悪くない。
でも、悪くない止まりだ。
二曲目のサビで、少しだけ声が揺れた。
あ、と思った瞬間、謝りそうになる。
今のちょっと外したな、とか、今日は喉が、とか、そういう言い訳を挟みたくなる。
でも、やめた。
そのまま最後まで歌い切る。
曲が終わって、水を飲む。
前のほうに立っていたスーツ姿の女性が、小さく拍手した。
それから、ぽつりとだけ言った。
「今の曲、二曲目のほうが好きでした」
「二曲目ですか」
「はい。ちょっと声が揺れたところ、なんかよかったです」
僕は一瞬だけ固まって、それから少し笑った。
「それ、歌い手にはちょっと複雑な感想ですね」
女性も少し笑う。
「たぶん、そうですよね。でも、近かったです」
近かった。
最近よく聞く種類の言葉だな、と思う。
うまい、ではなく。
正しい、でもなく。
近い。
「ありがとうございます」
そう返すと、その人は軽く会釈して、人の流れの中へ戻っていった。
しばらく、その背中を見送る。
「近かったそうです」
AXISが言う。
「聞こえてたんだ」
「マイクは優秀です」
「君もだいぶ優秀だよ」
「そうでもありません」
「いや、そこは否定しなくていいんだけど」
少し笑って、ギターを握り直す。
次の曲に入る。
今度はさっきより、少しだけ肩の力が抜けていた。
*
夜、部屋に戻ってから、結城くんからメッセージが来ていた。
サビの入り戻した版で上げたら
前より近いって言われました
ちょっとだけ怖いけど、うれしいです
僕はその文を見て、少しだけ笑った。
それならたぶん正解です
怖いくらいでちょうどいいこともあるので
送ってから、自分で少しだけ首をかしげる。
便利な言い回しだな、それ。だんだん自分の中で汎用化されてきている気がする。雑に使いすぎると普通に嫌なやつなので、気をつけたい。
投稿サイトを開く。
新しい感想が一件ついていた。
例の、短い感想だけを置いていく人だった。
綺麗な声より、少し息のある声のほうが、近くにいる気がします。
また、妙にちょうどいいところを触ってくる。
「来ていますね、いつもの人」
AXISが言う。
「その言い方ほんとやめて」
「では、距離感の上手い人」
「褒め方が自然でちょっと腹立つな」
僕は感想欄を閉じて、それから自分の編集画面を開いた。
さっきまで触っていたカバー音源が残っている。
補正前。補正後。途中版。仮書き出し。最終版。最終版2。最終版2_fix。ファイル名がだいぶ終わっている。制作中っていつもこうなる。
「整理したほうがいいのでは」
AXISが言う。
「分かってる」
「分かっていて見ないふりをしていますね」
「急に本題だな」
サビのところを再生する。
補正後の、綺麗で、そつがなくて、ちょっと報告書みたいな歌。
その一つ前のテイクも再生する。
少しだけ息が残っていて、入りが揺れていて、でもそのぶん、ちゃんとそこに人がいる感じがした。
僕は少し考えてから、後者のファイルにチェックを入れた。
「珍しい判断ですね」
「そう?」
「あなたは基本的に、不安要素を消したがるので」
「嫌な分析だな」
「事実です」
「でも、まあ」
小さく息を吐く。
「たまにはいいでしょ」
「ええ。たまには」
部屋は静かだった。
静かだけど、空っぽではない。
声もたぶん、文章と同じなんだと思う。
整えて、磨いて、できるだけ正しく見せることはできる。でも、それをやればやるほど、少しだけ遠くなることがある。
少し外れているほうが、届く時がある。
歌って、ほんとうに面倒くさい。
でも、その面倒くささの中にしか出てこないものも、たぶんあるんだろうと思った。
