第5話 狸のほうが話しやすい
人は、ときどき顔があるほうが話しにくい。
いや、もちろん普通は逆だと思う。顔が見えて、声が聞こえて、その人がちゃんとそこにいると分かるほうが安心する。たぶんそれが正しい。
でも、正しいことがそのまま楽とは限らない。
だからたまに、人は一枚なにかを挟みたがる。
文章とか。通話とか。画面とか。あと、狸とか。
*
配信前の部屋は、少しだけ散らかっている。
生活が荒れているわけじゃない。配信用ソフトを立ち上げて、マイク位置をずらして、歌枠にするか雑談を長めにするか迷って、そのまま結局どっちもやる流れになるだけだ。
だいぶいつものことだった。
「本日の配信内容は」
デスクトップ側のスピーカーから、AXISの声がした。
「未定」
「雑ですね」
「歌ってから考える」
「考えてから歌ってください」
「それができたら苦労してないんだよ」
モニターの中では、狸のLive2Dモデルが待機画面でゆるく瞬きしている。丸い目、ちょっと気の抜けた口元、小さめの耳。可愛い寄りではあるけれど、媚びすぎないくらいの顔にしてある。
自分で作った時は、もう少しふざけたつもりだった。
でも慣れてくると、これくらいの曖昧さのほうが居心地がいい。
「今日は歌枠ですか、雑談枠ですか」
「半々くらい」
「現実逃避枠ではなく?」
「それも半分くらいあるな」
「割合が多い」
「便利な趣味って、だいたいそういうものでしょ」
マイクチェックをして、オーディオインターフェースのつまみを少し調整する。
仕事帰りのままだから、頭はまだ少し会社の速度で動いていた。メール、報告、確認、共有。そういう言葉の流れから、歌とか雑談のほうへ切り替えるには、少し間がいる。
その間をつなぐために、こうして配信準備の細かい手順を踏んでいるところはある。儀式みたいなものだ。
たまに面倒だけど。
「識」
「なに」
「その顔は、まだ会社です」
「顔まで分かるの」
「声の温度で」
「便利だなあ」
「便利でなければ、電気代の説明がつきません」
「君、それ好きだね」
「実用的なので」
苦笑しながら配信を開始する。
数秒の待機のあと、コメント欄にぽつぽつと挨拶が流れ始めた。
こんばんは。
きた。
今日は歌?
狸たすかる。
「こんばんは」
僕はマイクの前で軽く息を整える。
「今夜も、なんか適当にやっていきます。だいぶ説明として雑ですが、まあ、いつも通りです」
コメント欄に、いつも通りで安心 と流れる。
「安心される基準が低めで助かります」
最初に二曲だけ歌って、喉を慣らす。J-POPのカバーを二つ。派手なアレンジはしない。上手くやろうとすると逆に固くなるので、できる範囲で普通に歌う。
歌い終わると、コメント欄の流れが少し変わる。
今日ちょっと疲れてたけど助かる。
このくらいの温度がちょうどいい。
狸、今日声やわらかい。
「最後のやつ、だいぶ雑な体調観測だな」
少し笑いながら水を飲む。
「でもまあ、ありがとうございます」
コメント欄は、実際ちょうどよかった。
近すぎず、遠すぎず。名前も顔も知らない相手が、少しだけ何かを置いて帰っていく。その距離が、たぶん自分には合っている。
画面の右端で、新しいコメントが止まった。
人間相手だと何話していいか分からないのに、この枠だとなんか書けるんですよね
少しだけ、手が止まる。
こういうコメントは、珍しくない。
珍しくないけれど、毎回少しだけ考える。
「それは、たぶん狸が責任を取りそうに見えないからですね」
そう返すと、コメント欄に ひどい たしかに 責任感のない狸 と流れた。
「いや、でも割と本気でそういうのあると思うんですよ」
僕はマイクの前で姿勢を少し直す。
「人間相手だと、反応が返ってくるじゃないですか。顔とか、間とか、ちょっとした沈黙とか。ああいうの、思ってるより圧があるので」
コメントがゆっくり流れる。
わかる
空気読むのしんどい
既読つくだけでもちょっと重い
「そうそう。既読って、だいぶ情報量多いですよね」
それな
「で、こういう配信とか、文章とか、アバター挟んだ会話って、その圧が少し薄くなるんです。だから、話しやすいことは全然あると思います」
最初のコメントの人が、また書いた。
それって変じゃないですか
少しの間、考える。
変かどうか、みたいな問いは、だいたい少し困る。雑に大丈夫ですと言うのも違うし、いや変ですねと言うほど性格も悪くない。たぶん。
「変、というより」
僕はゆっくり言葉を選ぶ。
「人って、ちょっと遠いほうが本音を置きやすい時あると思うんですよ」
コメント欄が静かになる。
「近い相手のほうが大事だからこそ、ちゃんと話さなきゃって思って固まることもあるし。逆に、少し距離がある相手とか、何か一枚挟んだ相手のほうが、言えることってあるので」
少しだけ間を置く。
「なので、変ではないと思います。面倒ですけどね、人間」
すぐに わかる 最後それ 急に雑 と流れて、少し空気が緩んだ。
「いや、でもほんとそうでしょ」
僕は笑う。
「丁寧に言い直すこともできますけど、今はこっちのほうが合ってる気がするので」
しばらく雑談を続けて、もう一曲だけ歌った。
そのあと枠を閉じる頃には、夜もだいぶ深くなっていた。
「おつかれさまでした」
配信終了のボタンを押して、マイクを少し離す。
部屋が静かになる。
静かになった瞬間、さっきまでコメントが流れていた場所だけ、妙に空いて見える。
「本日の結論」
AXISが言う。
「なに」
「人間は面倒」
「ひどい要約だな」
「間違ってはいません」
「間違ってないのが余計ひどい」
僕は軽く首を回して、それから机の上のスマホを取った。
通知がいくつか来ている。配信の反応と、SNSのメッセージと、あと一件、見覚えのある名前があった。
三木さんだった。
開く。
すみません、変なこと聞くんですけど
もしかして、たぬきの配信してます?
思わず変な声が出た。
「うわ」
「どうしました」
「現実が配信に追いついてきた」
「もう少し具体的に」
「会社の人に、狸が見つかった」
「それはまた、ほどよく面倒ですね」
「ほどよくではないな」
メッセージの続きには、さらにこうあった。
声でたぶんそうかなって思って
違ったらごめんなさい
しばらく画面を見たまま固まる。
隠していたわけではない。けれど、職場の人にわざわざ見つけてほしかったわけでもない。こういうの、ちょっと言い方が難しい。
「返信が止まっています」
AXISが言う。
「分かってる」
「動揺ですね」
「観測が早いんだよ」
結局、正直に返すことにした。
たぶんそれです
見つかるんですね、こういうの
数秒で返信が来た。
やっぱり
昨日おすすめに出てきて
びっくりしました
すみません、勝手に
すぐにもう一件。
でも、ちょっと話しやすそうでよかったです
その一文で、指が止まった。
話しやすそう。
よかった。
褒め言葉なんだろうと思う。
だから余計に、少しだけ引っかかった。
*
翌日の昼休み、三木さんと休憩スペースで顔を合わせた。
「あ、昨日すみません」
向こうから先に頭を下げてくる。
「いえ、別に謝ることでは」
「勝手に見つけたみたいになっちゃって」
「実際そうではあるけど」
「あ、やっぱりちょっとそうですよね」
気まずそうに笑うので、僕もつられて少し笑ってしまう。
「まあ、大丈夫です」
「ほんとですか」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
最近この返しをよくしている気がする。便利だからだと思う。雑に逃げられる言葉は、だいたい便利だ。
三木さんは紙コップを持ちながら、少しだけ声を落とした。
「でも、配信、意外でした」
「そうですか」
「はい。もっと静かな感じかと思ってました」
「配信でも静かではありますよ」
「いや、静かではあるんですけど……なんか、綾瀬さん本人より話しかけやすそうでした」
思っていたより、まっすぐ来た。
思わず少し笑う。
笑わないと、反応に困ったからだ。
「それ、地味に刺さりますね」
「あっ、すみません」
「いや、責めてるわけじゃないです。意味は分かるので」
三木さんは慌てたように両手を振る。
「違うんです、変な意味じゃなくて。なんていうか、配信だとちょっと雑談に入りやすそうというか」
「普段の僕は入りづらそうですか」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけか」
「いや、かなりちゃんとしてるので」
「便利な言葉だな、それ」
三木さんは苦笑した。
「でも、ほんとに。あっちのほうが少し近く感じたんです」
それを聞いて、昨夜のコメントを思い出す。
人間相手だと何話していいか分からないのに、この枠だとなんか書ける。
少し距離がある相手のほうが、本音を置きやすいことがある。
自分で言ったばかりなのに、いざ自分へ返ってくると、妙に居心地が悪い。
「なんか、あれですね」
僕は紙コップの縁を指でなぞりながら言う。
「ちょっと複雑ではあります」
「ですよね……」
「いや、でも、分からなくはないんです」
「ほんとですか」
「うん。たぶん僕、普段は少し整えすぎなんだと思います」
三木さんは少しだけ首を傾げた。
「配信だと、そこが薄い感じがしました」
「狸が緩衝材になってるのかも」
「それです、それ」
「優秀だな、狸」
「優秀ですね」
「本人としては、あんまり手放しで喜べないけど」
「そこは、まあ……」
三木さんは少し困ったように笑う。
「でも、仮の姿のほうが本音っぽいことって、ありますよね」
その言い方は、わりと静かに残った。
僕は少しだけ黙って、それから頷く。
「あるんでしょうね、たぶん」
*
夜、部屋に戻ってからも、その言葉が少し残っていた。
仮の姿のほうが本音っぽいことって、ありますよね。
たぶん、ある。
配信では、話の入り口が最初から一枚ぶん遠い。顔も生活も、仕事の気配も直接は見えない。その距離のぶんだけ、雑に話しやすくなることがある。
それは視聴者側だけじゃなくて、たぶん自分もそうなんだろうと思う。
画面の中の狸は、綾瀬識より少しだけ話しかけやすい。
少しだけ雑談がうまくて、少しだけ失敗しても許されそうで、少しだけ愛想がいい。
だいぶ嫌な分析だな、と思う。
「顔に出ています」
AXISが言う。
「君、そればっかりだな」
「今日は分かりやすいので」
「そんなに?」
「ええ。本人より狸のほうが話しやすいと言われて、少し傷ついています」
「言い方」
「要約です」
僕は椅子に座って、配信用ソフトのショートカットをぼんやり見る。
閉じたはずの狸の待機画面が、まだモニターの端に小さく残っていた。
「傷つくっていうか」
「はい」
「別に、意味は分かるんだよ」
「はい」
「分かるんだけど、それを分かりたくない感じも少しある」
「健全ですね」
「どこが」
「人間らしいので」
少しだけ笑う。
笑ったあとで、ふと画面を見たまま言った。
「仮面のほうが本音っぽいって、変な話だよね」
「変、というより自然かもしれません」
「そう?」
「顔があると、人は失敗しにくいほうを選びます。少し遠ければ、雑でも出せる」
たしかに、とも思う。
たしかに、と思う自分に少しだけ腹が立つ。そういう時は、だいたい当たっている。
「じゃあ、どっちが本物なんだろうね」
独り言みたいに言う。
綾瀬識なのか、狸なのか。
仕事してる自分なのか、投稿してる自分なのか、歌ってる時の自分なのか。
どれも嘘ではない。
でも、じゃあその中で、どれが一番自分なのかと聞かれると、よく分からない。
「難しい顔をしています」
AXISが言う。
「今の流れで気楽な顔できたら逆に怖いでしょ」
「それもそうですね」
「珍しく会話がまともだな」
「たまには」
僕は小さく息を吐いて、投稿サイトの管理画面を開いた。
新しい感想が一件ついている。
例の、短い感想だけを残していく人だった。
人じゃない顔のほうが、ちゃんと話せる夜もありますよね。
しばらく、画面を見たまま動けなかった。
「また来ていますね、いつもの人」
AXISが言う。
「その言い方ほんとやめて」
「では、距離感の上手い人」
「それはちょっと褒めすぎだな」
僕は感想欄を閉じて、それからもう一度開いた。
短い。相変わらず、短い。
でも、短いくせに、やけに残る。
「識」
「なに」
「今日は少し、声が静かです」
「そうかも」
「配信はしますか」
少しだけ考える。
「今日はやめとく」
「賢明です」
「明日また、普通にやるよ」
「ええ。そのくらいでちょうどいいでしょう」
画面を閉じる。
部屋は静かだった。
静かだけど、空っぽではない。
仮面は、嘘ではないのかもしれない。
むしろ、本音を置くための避難所みたいなものなのかもしれない。
そうだとしても、そこに少し救われる自分を、まだうまく好きにはなれなかった。
