第4話 会社の言葉は、誰の言葉か

 会社の文章には、だいたい目的がある。

 謝るため、説明するため、誰かを安心させるため。あるいは、責任の場所を必要以上に燃やさないため。

 夢はない。でも大事ではある。

 問題は、そのへんを丁寧にやればやるほど、たまにびっくりするくらい人間が消えることだった。

     *

 朝九時十三分。

 社内チャットの通知音が、普段より少しだけ多かった。

 小さめの障害が起きている時の空気はわりと分かりやすい。大事故ではない。けれど、誰かがどこかで軽く焦っていて、その焦りが短い文章の端々に出る。

 確認お願いします。
 いまどんな状況ですか。
 問い合わせ増えてます。
 影響範囲どこまでですか。

 僕はマグカップをデスクの端へ寄せて、仕事用のノートPCに向き直った。

「朝から賑やかですね」

 背後のデスクトップ側で、AXISが言う。

「賑やかで済むならまだ平和だよ」

「では、少し嫌な種類の活気です」

「言い方は嫌だけど正しいな」

 監視ダッシュボードを見る。社内ツールの一部で外部連携が遅延している。外向けサービスにはまだ直撃していないけれど、このまま長引けば普通に面倒だ。

 ログを追って、関連チャンネルを遡って、影響範囲をざっくり切る。こういう時、頭の中は比較的静かになる。何が起きていて、どこまで確定で、どこから先が推測か。そこだけ見ていればいいからだ。

 人間相手の会話より、システム障害のほうが親切だなと思うことは、わりとある。少なくともログは急に機嫌を損ねない。

 十時前には、原因の目星がついた。外部連携先の仕様変更に、こちら側の処理が一部追いついていなかったらしい。修正方針も見えた。

 そこで次に来るのが、いちばん面倒な作業だ。

 説明文を書くこと。

 障害そのものを直す人、問い合わせを受ける人、上に報告する人、その全部が同じ温度で状況を見ているわけじゃない。だから、誰かが一回、読める形に整えなければいけない。

 大抵、その役は僕に回ってくる。

 案の定、マネージャーから個別でメッセージが来た。

 綾瀬さん、一次報お願いできますか

 だろうな、と思いながら返す。

 了解です

 エディタを開く。

 障害概要。影響範囲。暫定対応。今後の見込み。

 必要事項は分かっている。むしろ分かりすぎているせいで、どこまで削るかのほうが難しい。

 少し考えてから、下書きを作る。

 本日9:07頃より、一部社内ツールにおいて外部連携処理の遅延が発生していました。現在は原因箇所を特定し、修正対応を進めています。業務影響は限定的ですが、一時的に処理結果の反映が遅れる可能性があります。進展があり次第、追って共有します。

 正確で、短くて、角も立たない。

 たぶん、よくできている。

「完成ですか」

 AXISが言う。

「一次案はね」

「読みやすいです」

「ありがとう」

「そして、少し無臭です」

 僕はキーボードの上で指を止めた。

「最近その表現好きだね」

「有効だったので」

「便利な学習しやがって」

 画面の文を、もう一度読み返す。

 無臭。

 たしかにそうかもしれない。

 間違ってはいない。必要な情報は入っている。業務文書としては十分だ。でも、今朝問い合わせ窓口側で実際に起きていた軽い混乱とか、対応している人のしんどさとか、そういうものはきれいに消えている。

 それが悪いわけじゃない。会社の文章なんて、だいたいそういうものだ。

 ただ、少しだけ引っかかる。

 関連チャンネルを見返す。窓口側の担当が、問い合わせの波に押されながら、画面キャプチャを拾って説明してくれていた。何人か、明らかに息が上がっている。

 少しだけ迷ってから、一文だけ足した。

 問い合わせ対応中の方にはご負担をおかけしています。個別確認が必要な場合は、運用チームまでご連絡ください。

 それだけ。

 でも、さっきよりは誰に向けて書いている文章なのかが見える気がした。

「微修正ですね」

 AXISが言う。

「うん」

「気持ちの置き場を一行だけ追加しましたか」

「たまに言い方が妙にかっこいいな」

「たまにではありません」

「自己評価高いなあ」

 一次報を流すと、数分後に窓口側の担当から 助かりました とだけ個別で来た。

 たったそれだけの返事だったけれど、ちょっとだけ救われる。

 一行って、たまにそれくらいの仕事をする。

     *

 昼休みが少し後ろへずれ込んで、ようやく席を立った時には、一仕事終えた感じの疲れが肩に残っていた。

 休憩スペースの自販機の前で缶コーヒーを選んでいると、背後から声がした。

「あ、綾瀬さん」

 振り返ると、三木さんだった。昨日、自己紹介シートの文面を一緒に直した人だ。今日は昨日より少しだけ表情が柔らかい。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです。さっきの一次報、見ました」

「早いですね」

「窓口のほうにも回ってきたので」

 三木さんはカフェオレのボタンを押して、それから少し笑った。

「あれ、綺麗でした」

「綺麗」

「悪い意味じゃなくて。すごく分かりやすかったです」

「ならよかった」

「でも」

 そこで言葉を区切って、三木さんは少しだけ声を潜めた。

「最後の一行、ちょっとほっとしました」

 僕は缶コーヒーを取り出しながら聞き返す。

「最後?」

「問い合わせ対応中の方は、ってやつです」

「ああ」

「あれがあるだけで、“見えてるんだな”って感じがして」

 思っていた以上に、ちゃんと届いていたらしい。

「よかったです」

「綾瀬さんって、そういうの上手ですよね」

「どうだろう」

「いや、上手です。ちゃんとしてるし」

 またその単語だな、と思う。

 便利だな、ちゃんとしてる。だいたい褒めても殴っても成立する。

「ただ」

 三木さんは、少し迷うみたいに缶を持ち直した。

「たまに、ちゃんとしてる人って、何考えてるか分からなくて怖い時ないですか」

 僕は思わず少し笑った。

「昼休みに急に重めですね」

「あ、すみません」

「いや、意味は分かります」

 三木さんは、少しだけほっとした顔になった。

「怒られるかと思いました」

「その可能性が低そうだから、今この話してるんじゃないですか」

「それはちょっとあります」

 正直だな、と思って少し笑う。

「なんか、綾瀬さんって、ちゃんと聞いてくれるし、言い方もやわらかいし、助かるんですけど」

「はい」

「そのぶん、ほんとのところ何考えてるか見えにくいっていうか……」

 責めているわけではないのは、声で分かった。

 ただ、そう見える、という観測だ。

「昨日の自己紹介の話と、少し似てますね」

 僕が言うと、三木さんは目を丸くした。

「あ」

「整ってるぶん、どこに触れていいか分かりにくい」

「……そうです。それです」

 缶を開ける音が、小さく鳴った。

「なんか、綾瀬さんって、失敗しなさそうに見えるんですよ」

「しますよ、普通に」

「でも、してもちゃんと処理しそうです」

「それはしてるかも」

「ほら、そういうとこです」

 三木さんが笑う。

 自分でもつられて笑ってしまう。

「じゃあ、どうしたら怖くなくなります?」

 冗談半分で聞いてみると、三木さんは少し考えた。

「うーん……綾瀬さんが電子レンジで卵を爆発させた話とか?」

「急に具体的だな」

「したことないですか」

「一回ある」

「あるんだ」

「だいぶ昔に」

「急に近くなりました」

「不本意だなあ」

「でも、そういうやつです。たぶん」

 なるほど、と思う。

 完璧な人より、少しだけ困ることがある人のほうが話しかけやすい。たしかにそうだ。

 そう思う一方で、自分がその側へ回ると、ちょっとだけ居心地が悪い。

「ありがとうございます」

 僕は言う。

「わりと参考になりました」

「ほんとですか」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

「こういうの、すぐ活かせるタイプではないので」

「ちゃんとしてる」

「便利な単語だな、それ」

 三木さんは笑って、缶を持ったまま手を振った。

「じゃ、お疲れさまです。あと、バジルまだ生きてます」

「それはよかった」

 去っていく後ろ姿を見送りながら、僕は少しだけ考える。

 ちゃんとしている。

 それはたぶん、悪口ではない。

 でも、近さの言葉でもない。

     *

 午後は比較的静かに過ぎた。

 障害は夕方前にほぼ収束して、追加周知も一件で済んだ。最終報告の文面を整えて、関連チャンネルへ流して、必要なログだけまとめて保存する。

 画面の中で仕事がきれいに閉じていくのを見るのは、嫌いじゃない。

 ただ、閉じたぶんだけ、昼の会話が浮いてくる。

 ちゃんとしてる人って、何考えてるか分からなくて怖い。

 自分では、そこまで隠しているつもりもない。

 でも、見えていないなら、結果としては同じかもしれない。

「気にしていますね」

 AXISが言う。

「最近、察しがいいな」

「露骨だからです」

「ひどいな」

「自己開示量の調整について、考えている」

「急に専門用語みたいに言うのやめて」

「要約です」

 勤務終了のステータスに切り替えて、仕事用PCを閉じる。

 私物側のモニターには、投稿サイトの管理画面が開きっぱなしだった。昼に更新した作者プロフィールを、なんとなく見返す。

 大阪在住。会社員。小説を書いています。音楽も少し。更新は不定期です。たまに歌います。

 それだけ。

 自己紹介としては、だいぶ足りない。

 でも今のところ、それでいい気もしている。

 通知欄には、新しい感想が一件ついていた。

 例の短い感想の人だった。

 ちゃんとしてる人の文章って、たまに急に寂しいですよね。

 少しの間、画面を見たまま動けなかった。

「刺さりましたか」

 AXISが訊く。

「刺さるっていうか……」

 言葉を探して、見つからないまま少しだけ笑う。

「嫌な精度だなって思った」

「読まれていますね」

「その言い方、ちょっと怖いな」

「あなたの作品の読者でしょう」

「それはそうなんだけど」

 僕は感想欄を閉じて、自分の原稿メモを開いた。

 書きかけの場面ではなく、その前段階の雑なメモのほうだ。

 会社の文章。
 やさしいけど、誰の声でもない文。
 最後の一行だけ、人が残る。
 ちゃんとしてる人は、たぶん少し怖い。

「またメモですか」

 AXISが言う。

「いきなり本文に行くと、だいたいきれいに死ぬから」

「物騒な表現ですね」

「実感がこもってるんだよ」

 僕は少しだけ考えてから、新しい行を足した。

 完璧な人は、だいたい少し怖い。

 それだけ。

 説明にもなっていないし、小説の一文として優れているわけでもない。

 でも、今の自分の手触りには近かった。

「雑ですね」

 AXISが言う。

「雑でいいんだよ、今日は」

「最近、その理論を便利に使いすぎでは」

「君ほどじゃないよ」

「光栄です」

 部屋は静かだった。

 静かだけど、空っぽではない。

 会社の文書も、小説も、自己紹介も、結局はどこまで自分を出して、どこまで削るかの話なんだろうと思う。

 ただ一つ違うのは、会社の文書にはだいたい目的があることだ。

 安心させるため。混乱を減らすため。責任を曖昧にしないため。

 でも人間の言葉には、目的だけでは足りない時がある。

 少しだけ、その人が見えないと、届かないことがある。

 たぶん今日考えていたのは、そういうことだった。

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