第14話 人に言い当てられた翌朝
人に言い当てられた翌朝も、ゴミの日は来る。
だいぶ容赦がないなと思う。
昨日は昨日で、そこそこ大きめのことがあったはずなのに、朝になれば燃えるゴミをまとめて、コーヒーを淹れて、勤怠を打刻して、いつも通り仕事を始めるしかない。
人生はそういうところがある。
ドラマのあとに、普通の生活が平気な顔で戻ってくる。
*
朝、ゴミ袋を持って玄関を出たところで、隣の佐藤さんと鉢合わせた。
「あ、おはようございます」
「おはようございます」
普通に挨拶して、普通にすれ違う。
それだけなのに、少しだけ救われる。
人間関係って、たまにこういう普通で助かることがある。
部屋に戻って、コーヒーを淹れて、仕事用のノートPCを開く。デスクトップのほうでは、AXISのログウィンドウが静かに立ち上がっていた。
「本日の体調は」
AXISが言う。
「急だな」
「観測開始です」
「やめてよ、その健康アプリみたいな入り」
「昨夜、人に読まれたので」
「言い方が嫌だな」
「事実の確認です」
マグカップを持ち上げて、一口飲む。少し濃い。たぶん粉を多く入れた。ぼんやりしていたんだろうなと思う。
「で、どうなんですか」
AXISが続ける。
「なにが」
「人に言い当てられた翌朝の気分です」
「質問が雑だな」
「要点を押さえています」
少し考えてから、僕は肩をすくめた。
「別に、劇的にどうこうって感じではないよ」
「はい」
「でも、ちょっとだけ座りが悪い」
「妥当ですね」
「便利な返事だな」
「最近のあなたに合わせています」
勤怠を打刻して、社内チャットを開く。
何件か通知が溜まっていた。だいたいが普通の業務連絡で、世界はきれいに昨日の続きではなかった。
少しだけ、それに安心する。
*
午前中、三木さんから個別でメッセージが来た。
綾瀬さん、社内イベントのプロフィール、ちょっとだけ直しました
見てもらっていいですか
開く。
前に一緒に直した自己紹介文が、少しだけ更新されていた。
慣れるまでは少し静かですが、話を聞きながら整理するのが得意です。最近はベランダのバジルを枯らさないことに成功しました。あと、休日にうまく起きられた日はちょっと機嫌がいいです。
思わず少し笑った。
「人間が増えましたね」
AXISが言う。
「その表現、たまにちょっと怖いんだよ」
でも、たしかにそうだった。
最後の一文が増えただけで、だいぶ顔が見える。
いいと思います
最後の一文、だいぶ話しかけやすいです
そう返すと、すぐに返事が来た。
よかったです
でも、ちょっと雑すぎるかなと思って迷いました
その文を見て、僕は少しだけ止まる。
雑すぎるかなと思って迷いました。
分かるな、と思う。
きれいに整えたくなる気持ちと、それをやると少し遠くなる感じ。その間で迷うのは、たぶん何を書く時も同じだ。
僕は短く返した。
そのくらいでちょうどいい時ありますよ
少なくとも、前より本文っぽいです
送ってから、少しだけ自分で笑った。
最近、本文という単語をずいぶん便利に使っている気がする。
「便利ですね」
AXISが言う。
「読んだ?」
「あなた、今ちょっと顔がゆるみました」
「観測が雑なんだよ」
「しかし、近いでしょう」
近い。
またその単語だな、と思う。
でも今日は、その言葉がいつもより少しだけ嫌じゃなかった。
*
昼休み、コンビニで買ったおにぎりを休憩スペースで開けていたら、三木さんがやってきた。
「直したやつ、大丈夫でした?」
「よかったと思います」
「ほんとですか」
「うん。最後の一文が効いてた」
三木さんは少しだけ笑って、それから紙パックの紅茶を机に置いた。
「綾瀬さんって、最近ちょっとやわらかいですよね」
唐突だなと思う。
「最近?」
「はい。前よりちょっとだけ」
「抽象的だな」
「すみません。でも、なんかそんな感じで」
僕はおにぎりの海苔を持ったまま少し考える。
「それ、いい意味?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「便利だから使ってみました」
「それ、僕のせいだな」
三木さんは少し笑う。
「なんか前は、もうちょっと“ちゃんとしてる人”って感じだったんですけど」
「今は?」
「ちゃんとしてるけど、ちょっとだけ話しかけやすいです」
それはたぶん、褒め言葉なんだろう。
ただ、妙に具体で少し照れる。
「それ、どこが変わったんだろうね」
僕が言うと、三木さんは少しだけ首を傾げた。
「うーん……たまに迷ってる感じが見えるからですかね」
そこで、少しだけ言葉が止まる。
「迷ってる」
「はい。前は、綾瀬さんの中で全部一回整理されてから喋ってる感じがあったんですけど」
「今は?」
「今は、ときどき整理の途中っぽい」
それを聞いて、僕は思わず笑ってしまった。
「それ、大丈夫なのかな」
「私は、そっちのほうが安心します」
三木さんはそう言って、少しだけ肩をすくめた。
「完成してる人って、ちょっと怖いので」
「その評価、ほんと一貫してるな」
「だって本当にそうなので」
それから三木さんは紅茶を持って立ち上がる。
「じゃ、お疲れさまです。あと、バジル元気です」
「それはよかった」
去っていく背中を見送りながら、僕は少しだけ考える。
整理の途中っぽい。
それはたぶん、昔の自分ならあまり良い評価として受け取れなかった。
でも今は、そこまで悪くない気もした。
完成していないように見えることと、壊れていることは、たぶん別だ。
*
午後の仕事は静かだった。
問い合わせをいくつか返して、仕様確認をして、会議を一件やって、終わる。その合間に、例のアカウントから新しいメッセージが一通届いていた。
昨日はありがとうございました
帰ってから、少しだけ寝つきがよかったです
たったそれだけだった。
でも、その“少しだけ”がこの人らしいなと思う。
全部が救われたとか、何かが解決したとか、そういう大きい言い方をしない。少しだけ足りたとか、少しだけよかったとか、そのくらいの幅でしか言わない。
そこがたぶん、妙に信じやすい。
僕は少し考えてから返した。
それはよかったです
こっちも、少しだけ座りが悪い感じが減りました
送信してから、ちょっと変な文だなと思う。
でも、変なくらいのほうが今はちょうどいい気がした。
すぐに返信が来る。
その言い方、ちょっと好きです
座りが悪い感じ、分かるので
それだけ。
それだけなのに、妙に会話になっている。
たぶん前なら、もう少し整えて返していた気がする。
今は、その必要が少し減っている。
「珍しいですね」
AXISが言う。
「なにが」
「きれいに言い直しませんでした」
「面倒だったからかも」
「それも含めて進展では」
「都合のいい解釈だな」
「便利ですので」
*
夜、配信をつけるか少し迷った。
迷った末に、短めの雑談だけやることにした。歌う気分ではない。でも、完全に閉じるほどでもない。そういう半端な日は、半端なまま配信したほうがうまくいくことがある。
待機画面を開くと、狸がいつものようにゆるく瞬きをしていた。
「本日の内容は」
AXISが言う。
「未定」
「安定していますね」
「褒めてる?」
「観測です」
配信を始める。
コメント欄に、ぽつぽつと挨拶が流れ始めた。
こんばんは。
きた。
今日は雑談?
なんか今日、すでに少しゆるい。
「最後のやつ、だいぶ早いな」
僕は笑って水を飲む。
「まだ三言くらいしか喋ってないんだけど」
でもなんとなく
そういう日ある
気配でわかる
「気配で会話するの、ほんとやめてほしいな」
少し笑いが流れる。
他愛ない話をいくつかして、途中でこんなことを言った。
「最近、人って途中でもいいのかもなってちょっと思ってるんですよね」
コメント欄が少しだけゆっくりになる。
途中?
どういうこと
わかる気もする
「いや、なんか」
僕は言葉を探しながら続ける。
「ちゃんとしてるとか、分かりやすいとか、完成してるとか、そういう見え方って便利なんですけど」
コメントが流れる。
うん
はい
便利ではある
「でも、人って別に常に完成形でいるわけじゃないし。むしろ途中の時間のほうが長いじゃないですか」
少しだけ間を置く。
「だから、途中っぽいまま誰かに見つかるのって、そんなに悪いことでもないのかもなって」
コメント欄に、短い言葉が流れた。
ちょっと救われる
続けて、
完成してるふり疲れる時ある
わかる
途中でいるの、だめだと思ってた
僕は画面を見ながら、小さく息を吐く。
「だめではないと思います。たぶん」
たぶん
たぬきのたぶん助かる
断定しないのが逆にいい
「そこ、最近よく言われるな」
少し笑ってから、続ける。
「いきなり言い切らないのって、逃げでもあるんですけど」
コメント欄が少し静かになる。
「でも、逃げ道があるから話せることもあるので。全部が全部、悪いわけではないのかなって」
その一文は、自分で言いながら少しだけ驚いた。
前なら、そこまで素直には言わなかった気がする。
もう少し整えて、もう少し安全な文にしていたと思う。
でも今日は、そのままでいい気がした。
コメント欄に、ぽつりと流れる。
それ、今日のタイトルにしたい
僕は少し笑った。
「便利なこと言うなあ」
褒めてる
うまい
でも今夜はタイトルいらない感じもする
「それはそうかも」
僕は画面の向こうに向かって言う。
「今夜は、別にうまくまとまらなくていい気がしてるので」
そのまま少しだけ雑談して、配信を閉じた。
終わったあと、妙に疲れていなかった。
*
部屋が静かに戻る。
スマホを見ると、例のアカウントから一通だけ来ていた。
配信、見てました
途中でもいいって言い方、少し好きでした
それだけ。
それで十分だった。
僕は返信欄を開いて、少しだけ考える。
それから、珍しくあまり迷わず打った。
たぶん、まだ途中のほうが本物に近い時もあるので
送る。
既読がつく。
返信はすぐには来なかった。
でも、それでよかった。
たまに、返事がすぐ来ないことが不安じゃない夜もある。
「識」
AXISが言う。
「なに」
「今日は、少しだけ自然でしたね」
「自然」
「整えすぎていない、という意味で」
「褒めてる?」
「かなり」
「珍しいな」
「あなたが珍しかったので」
僕は少し笑って、メモ帳を開いた。
いつものように、一行だけ置く。
途中のままで見つかる人もいる。
それだけ。
うまい文でも何でもない。
でも、今の自分には少し近かった。
「雑ですね」
AXISが言う。
「今日はそれでいい」
「最近、その理論を多用していますね」
「便利だから」
「私みたいに」
「君ほどではないかな」
カーソルが静かに点滅している。
その点滅を見ながら、ふと思う。
たぶん僕は、前より少しだけ、自分の途中を嫌わなくなっている。
完成していないことと、足りないことは、同じじゃない。
そのくらいのことを、やっと少しだけ体で分かり始めたのかもしれなかった。
