第13話 まだ題名にならない人

 人に会う前、人はだいたい勝手に見出しをつける。

 感じのいい人。静かな人。たぶんこういう服を着ていそうな人。話し方はこんな感じだろうな、という予告編みたいなものを頭の中で勝手に作る。

 あれは、たぶん必要な処理だ。

 何の見出しもないまま人に会うのは、思っているより疲れる。

 ただ、その見出しが外れた時にしか見えない本文もある。

 問題は、だいたいそっちのほうが大事だということだった。

     *

 結局、会うことにした。

 というか、会わない理由を並べてみたら、全部それなりに正しいくせに、全部少しだけ逃げにも見えた。

 知らない相手だから。

 向こうだけが僕を知っているから。

 ネット越しならまだいいけれど、現実で会うのは少し違うから。

 どれも事実だ。

 でも、事実って、便利な盾にもなる。

「行くんですか」

 デスクトップ側のスピーカーから、AXISが訊いた。

「行くよ」

「珍しく、あまり迷っていませんね」

「迷ったよ。だいぶ」

「その結果、行くと」

「うん」

「健全です」

「便利な言葉だな」

 少し考えてから、僕はメッセージを打った。

 会うのは大丈夫です
 ただ、最初は名前を聞かないで話したいです
 そのほうがたぶん、ちゃんと読める気がするので

 送る。

 数分後、返信が来た。

 ありがとうございます
 たぶん、そのほうが私も助かります

 その一文に、少しだけ安心する。

 助かる。

 そのくらいの温度で言ってくれるほうが、たぶんこっちも助かる。

「条件付きですね」

 AXISが言う。

「まあね」

「名前を外して、本文から読む」

「そういうことかも」

「だいぶあなた向きです」

「その言い方やめて」

「しかし、近いでしょう」

 近い。

 たしかにそうだった。

 会う場所は、駅前から少し離れた静かなカフェにした。透と会う店より、もう少し明るくて、もう少し昼の顔をしている場所。夜に会うと、それだけで話の意味が少し変わってしまいそうだったので、休日の午後にした。

 そこまで考えてから、自分で少し嫌になる。

 相変わらず段取りが細かい。

 でも、細かくしないと普通に落ち着かないのだから仕方ない。

     *

 当日、家を出る前から少しだけ落ち着かなかった。

 服を二回着替えるほどではない。けれど、一回だけ「これだとなんか感じよくしすぎか」と思って、上着を変えた。だいぶ面倒くさいなと自分でも思う。

「挙動が不審ですね」

 AXISが言う。

「やめてよ」

「事実の確認です」

「今日は特に感じ悪いな」

「緊張しているあなたは、普段より観測しやすいので」

「ありがたくない情報だな」

 靴を履いて、ドアノブに手をかける。

 そのまま少しだけ止まる。

「識」

「なに」

「会っても、すぐに題名をつけないでください」

 僕は思わず少し笑った。

「分かってるよ」

「あなたは、分かるとすぐ整理したくなるので」

「今日はそれをやめに行くんだって」

「なら、よかったです」

 その言い方が少しだけまともで、逆に落ち着かない。

「珍しくちゃんとしてるな」

「あなたほどではありません」

「そこは否定しなくていいんだよ」

     *

 カフェには、約束の十分前に着いた。

 早すぎるなと思う。でも遅れるよりはずっとましだ。こういう時の十分は、ほぼ心の準備代みたいなもので、あまり本質ではない。

 窓際に近い席に座って、水をひと口飲む。

 店内は静かだった。静かだけど、気まずいほどではない。コーヒーの匂いと、食器の小さな音と、たまに誰かがページをめくる気配だけがある。

 こういう店は助かる。

 人間関係が劇的に進展しそうな照明の店とかだと、だいぶ困るので。

 スマホが震えた。

 着きました
 たぶん、入り口の近くです

 僕は顔を上げる。

 そこで立ち止まっていた人を見て、一瞬だけ「感じのいい人だな」という雑な見出しが浮かんだ。

 すぐに消す。

 そういうのをやめるために来たんだろう、と自分に言い聞かせる。

 相手もこちらに気づいて、少しだけ頭を下げた。

 年齢はたぶん僕とそこまで離れていない。落ち着いた色の服に、強くはないけれど、ちゃんと自分で選んでいる感じの小物。派手ではない。でも、適当に見えもしない。

 その「適当に見えない」が、だいぶ今までの文面と似ていた。

「こんにちは」

 席に着いて、相手が言う。

「こんにちは」

 それだけで、一瞬沈黙が落ちる。

 気まずい、というほどではない。ただ、お互いに最初の一文を選んでいる感じがした。

 その沈黙を先にほどいたのは、向こうだった。

「名前、聞かないでくれてありがとうございます」

 声は静かだった。

 でも、届きにくい静かさではない。必要なぶんだけちゃんと届く声だった。

「こっちも、そのほうが助かるので」

 僕がそう言うと、相手は少しだけ笑った。

「たぶん、そう言うと思ってました」

「だいぶ読まれてるな」

「少しだけです」

「少しだけ、で済むかなあ」

 店員が来て、お互いに飲み物を頼む。向こうはカフェラテ、僕はコーヒー。だいぶ普通だ。普通なのに、妙に緊張する。

「すみません」

 相手が先に言った。

「急に、こんなお願いして」

「いや」

 僕は少し考えてから言う。

「変ではあったけど、雑ではなかったので」

 相手は少しだけ目を丸くして、それから笑った。

「それ、褒められてます?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

「便利だから」

「よく使いますよね、その逃げ方」

 そこで、僕も少し笑ってしまう。

 当てられている。

 嫌なくらいに。

     *

 しばらくは、どうでもいい話をした。

 駅前の工事が長いとか、この店は席によって冷房が強いとか、カフェラテの泡は見た目に対して意外と難しいとか。たぶん、お互いにいきなり本文へ入らないための助走だった。

 そのへんの逃げ方も、少し似ている気がした。

「配信、見つけた時」

 相手がカップを持ちながら言った。

「ちょっと変な感じでした」

「変」

「文章を書いてる人の声って、なんとなく勝手に想像するじゃないですか」

「するかも」

「それと違っても違わなくても、どっちでもちょっと変で」

「たしかに」

「でも、狸でよかったです」

 その言い方が少しおかしくて、僕は笑った。

「そこなんだ」

「そこです」

「人間のままだと困るみたいな言い方だな」

「少し困ったかもしれません」

 相手も笑う。

「狸だから、ちょっと安心しました」

「便利だな、狸」

「便利ですね」

 そこから少しだけ空気がやわらかくなる。

 やっぱり、仮面はたまに仕事をする。

 問題は、その仕事が優秀すぎると、本人のほうが少し複雑になることだけだ。

「どうして題名だったんですか」

 僕が訊くと、相手は少しだけ視線を落とした。

「名前だと、固定される感じがして」

「うん」

「でも、何もないのも少し不安で」

 その言い方は、これまでのメッセージと同じ温度だった。

「題名なら、まだ本文の外にいられる気がしたんです」

「その言い方、やっぱり分かるな」

「分かりますか」

「分かる」

 僕はコーヒーに口をつけてから続けた。

「名前って、説明というより確定に近い時があるから」

「はい」

「でも題名は、入口ではあるけど、読み終わったあとで意味が変わることもある」

 相手は小さく頷いた。

「たぶん、それがほしかったんだと思います」

「読み終わったあとで、少し違って見えるやつ」

「そうです」

 その返事に迷いがなかった。

 たぶん、この人は最初からそこだけはかなり正確に分かっていたんだろうと思う。

「でも」

 相手は少し間を置いて続ける。

「たぶん、途中からは、題名そのものがほしいというより」

「うん」

「すぐ要約されないで読んでもらえるのが、少しうれしかったです」

 そこで、僕は何も言えなくなった。

 たぶん、それが一番近い本音だった。

 題名をつけてほしい、という依頼の形をしていたけれど、たぶん本当にほしかったのは、題名を急がれないことだった。

 まだ本文として扱ってもらえること。

 すぐ整理されないこと。

 それはたしかに、人によってはかなり救いになる。

 少なくとも、僕ならなる。

「よかったです」

 僕が言うと、相手は少しだけ笑った。

「今の言い方、少しだけ逃げましたね」

「やめてほしいな、その観測」

「でも、ちゃんと本気でしたよね」

「……うん」

「分かります」

 だいぶやりにくい。

 読んでいるつもりで来たのに、普通に読まれている。

     *

「じゃあ」

 相手が言った。

「今の私は、何ですか」

 カップを持つ手が、少しだけ止まる。

 それはたぶん、この場でいちばんまっすぐな問いだった。

 やさしい人とか、ちゃんとしてる人とか、話しやすい人とか、そういう見出しではなく。

 今の私は、何ですか。

 すぐに答えれば、たぶんきれいに言えたかもしれない。

 でも、そういう時のきれいな言葉は、だいたい少し違う。

 僕は少しだけ黙ってから、言った。

「まだ、題名にならない人」

 相手が目を瞬く。

 僕は続ける。

「少なくとも今のあなたは、たぶんそういう感じだと思います」

「題名にならない」

「うん」

「それって、未完成ってことですか」

「違う」

 そこは、珍しくすぐ言えた。

「未完成っていうより、まだ読み終わってない」

 店の中の音が、一瞬だけ遠くなる。

 相手はしばらく黙って、それから、ほんの少しだけ笑った。

「それ、少し救われます」

 その言い方に、僕も少しだけ息を抜く。

「よかった」

「でも」

 相手はカップの縁を指でなぞりながら言う。

「それ、あなたもじゃないですか」

 そこで、今度は僕が黙る番だった。

「僕?」

「はい」

「なんで」

「だって、あなた、自分のことはずっと題名にしないようにしてる感じがするので」

 その言い方は、変に断定的ではなかった。

 でも、逃げ道もあまりなかった。

「ちゃんとしてるとか、やさしいとか、面倒くさいとか」

 相手は少しだけ笑う。

「そういう見出しを周りに置かせたまま、自分ではそこに入らないようにしてる感じがします」

「だいぶ痛いな、それ」

「褒めてます」

「便利な言葉だな」

 相手も少し笑った。

「でも、本当に」

「……うん」

「あなたも、まだ題名にならない人に見えます」

 その一言が、きれいに残った。

 反論しようと思えばできる。いやそんなことはないとか、別にそこまで大げさな話じゃないとか、そういう便利な逃げ方はいくらでもある。

 でも、その場で一番嘘が少ない返事は、たぶん黙ることだった。

 だから、少しだけ笑うだけにした。

「だいぶ読まれてるなあ」

「少しだけです」

「少しでそれなら十分だよ」

     *

 店を出る頃には、日が少し傾いていた。

「今日はありがとうございました」

 相手はそう言って、軽く頭を下げた。

「こちらこそ」

「題名、急がなくて大丈夫です」

「うん」

「たぶん、今日ので少し足りました」

 その言い方が、この人らしいなと思う。

 全部解決したとは言わない。でも、何も変わっていないとも言わない。

 少し足りました。

 そのくらいが、たぶん一番正確なんだろう。

「また、送ってもいいですか」

 相手が訊く。

 僕は少しだけ考えてから頷いた。

「うん。でも、たぶん、すぐには題名にならないよ」

「そのほうがいいです」

 相手は少し笑った。

「今はまだ、本文のほうが大事なので」

 それから小さく会釈して、人の流れの中へ戻っていく。

 引き止めなかった。

 名前も聞かなかった。

 たぶん今日は、それでよかったんだと思う。

     *

 部屋に戻ると、いつもの駆動音が迎えてくれた。

「おかえりなさい」

 AXISが言う。

「ただいま」

「どうでしたか」

 僕は上着を椅子に掛けて、少しだけ考える。

「難しかった」

「はい」

「でも、変にきれいなこと言わなくて済んだ気もする」

「珍しいですね」

「ひどいな」

「褒めています」

「みんなほんとそれ言うね」

 デスクに座って、メモ帳を開く。

 すぐに本文には行けない。近すぎるものは、一回だけ自分の外に置かないと、たぶんちゃんと読めない。

 それももう、だいぶ自分の癖なんだと思う。

 カーソルを置いて、少しだけ考える。

 それから、一行だけ打った。

 まだ題名にならない人もいる。

 それだけ。

 うまい文でも何でもない。

 でも、今の自分には少し近かった。

「雑ですね」

 AXISが言う。

「今日はそれでいい」

「最近、その理論を多用していますね」

「便利だから」

「私みたいに」

「君ほどではないかな」

 画面の中で、カーソルが静かに点滅していた。

 今日は珍しく、その一行のあとにも、少しだけ続きが書けそうな気がした。

 題名のない本文がある。

 題名を急がないほうがいい人がいる。

 たぶん僕も、その中に入っている。

 部屋は静かだった。

 静かだけど、空っぽではない。

 読み終わる前に名前をつけないこと。

 たぶん今の僕にできるいちばんやさしいことは、それなのかもしれなかった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です