第12話 たぶん、から始まる人

 書き出しには、その人の癖が出る。

 もう少し性格の悪い言い方をすると、逃げ方が出る。

 いきなり言い切る人。少し笑ってごまかす人。遠回りしてから本題に入る人。最初に「まあ」とか「たぶん」とか「別に」を置いて、真正面から始めるのを少しだけ先延ばしにする人。

 だいぶ嫌な観察だなと思う。

 でも、たぶん当たっている。

     *

 朝、仕事前に自分の下書きフォルダを開いていた。

 別に健全な習慣ではない。朝から自分の失敗ログを見に行くみたいなものだ。あまりおすすめはしない。

「現実逃避ですね」

 デスクトップ側のスピーカーから、AXISが言った。

「資料集めです」

「便利な言い換えです」

 フォルダの中には、見慣れた終わったファイル名が並んでいる。

 短編_仮
 短編_仮2
 短編_fix
 短編_fix_2
 短編_fix2_final
 短編_fix2_final_本当の最終

「だいぶ終わっていますね」

「触れないでほしい過去が近いな」

「現在進行形ですが」

「ほんと感じ悪いな」

 適当にいくつか開いて、最初の一行だけ拾っていく。

 まあ、別に大した話じゃないんだけど。
 たぶん、最初から分かっていたんだと思う。
 別に、傷ついたわけじゃない。
 なんとなく、今日は少しだけ空気が違った。
 要するに、だいぶ面倒くさい。

 そこで、僕は少し黙った。

「どうしました」

 AXISが訊く。

「いや」

「いや、ではないですね」

「僕、ほんとに逃げながら始めてるなって思って」

 まあ
 たぶん
 別に
 なんとなく

 どれも悪い言葉じゃない。

 でも、どれも少しだけ保険がある。いきなり断定しない。真正面から立たない。少しだけ斜めから入って、自分が当たりにいく角度を緩めている。

 だいぶ自覚のある書き方だった。

「あなたの書き出し、逃げ道が多いですね」

 AXISが言う。

「最悪だな」

「しかし、特徴ではあります」

「特徴で済ませていいのかな、これ」

「少なくとも、一行で“あなたらしさ”は出ています」

 それはたぶん、褒め言葉なんだろう。

 でも同時に、ちょっと痛い。

 書き出しには、その人の構えが出る。

 そういうことなんだと思う。

     *

 午前中は比較的平和だった。問い合わせも少なく、社内チャットも静かで、会議も短い。こういう日は仕事としてはかなり良い。物語としては弱いけど、人生はだいたいそのくらいのほうが助かる。

 昼休み、休憩スペースで三木さんと一緒になった。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです」

 三木さんはカフェオレを持ちながら、小さく笑う。

「綾瀬さんって、たぶんってよく言いますよね」

 いきなり来たな、と思う。

「急だな」

「すみません。でも、最近ちょっと気になって」

「悪い癖として?」

「いや、なんか……否定しきらない感じが綾瀬さんっぽいなって」

 それを聞いて、少しだけ笑った。

「それ、だいぶちゃんと見てるね」

「見てますよ。あと、“まあ”も多いです」

「やめてほしいな、その分析」

「褒めてます」

「便利な言葉だな、それ」

 三木さんは笑ったあとで、少し真面目な顔になった。

「でも、そういう始まり方って、少し安心しません?」

「安心?」

「いきなり言い切られるより、こっちも入りやすいというか」

 その言い方は、ちょっと意外だった。

 逃げ道だと思っていたものが、相手には入口として見えている。

 そういうこともあるのか、と思う。

「なるほどね」

「だから、あんまり悪い癖って感じしないです」

「フォローがやさしいな」

「ちゃんとしてる人が、ちょっと逃げながら始めると、人間っぽくていいんですよ」

「便利な悪口だな、それ」

「褒めてます」

「みんなほんとそれ言うね」

 三木さんは笑って、先に休憩スペースを出ていった。

 残された甘い匂いの中で、僕は少しだけ考える。

 逃げ方が、そのまま入口になることもある。

 それはたぶん、書き出しにも、人間関係にも、わりと同じように起こるんだろうと思う。

     *

 夜、部屋に戻ると、例のアカウントからメッセージが来ていた。

 昨日のこと、少し考えていました
 最初の一行の話です

 そのあと、少し間を置いたような文章が続く。

 あなたの書き出し、たぶん「まあ」か「たぶん」から始まる気がします
 違ったらごめんなさい

 そこで、僕は本当に止まった。

「読まれましたね」

 AXISが言う。

「その言い方、ちょっと腹立つな」

「事実の確認です」

 もう一度、画面を見返す。

 たぶん「まあ」か「たぶん」から始まる気がします。

 当たっている。

 嫌なくらい当たっている。

 しかも、指摘の仕方が雑じゃない。ただ見抜いたことを自慢したい感じじゃなくて、静かに“たぶんそうですよね”と置いてくる。だから余計に逃げ場がない。

「どう返しますか」

 AXISが訊く。

「否定はできないな」

「はい」

「でも、認めるのも少し悔しい」

「健全です」

「便利な言葉だな」

 少し迷ってから、僕は短く返した。

 たぶん、そうです
 いきなり言い切るのが少し怖いので

 送る。

 数分後、すぐに返信が来た。

 よかったです
 私だけじゃなくて

 その一文で、妙に肩の力が抜けた。

 ああ、と思う。

 この人はたぶん、正解が欲しいんじゃない。自分だけが変な書き出し方をしているわけじゃない、と確かめたいんだ。

 そういう確認は、たしかに少し救いになる。

 少なくとも、僕ならなる。

「少し安心しましたね」

 AXISが言う。

「そうかも」

「相手も、あなたと同じように保険を置く人だった」

「言い方は嫌だけど、まあそういうことかも」

 さらに続きが来る。

 じゃあ、私の最初の一行、少し考えてみました
 「ちゃんとしてるね」と言われるたびに、少しだけ自分が薄くなる

 僕はその文を見たまま、しばらく動けなかった。

 短い。

 短いけれど、ちゃんと本文の匂いがした。

 上手いとか下手とか、そういう話ではなくて、ああ、これはたしかに書き出しだなと思う。

「どうですか」

 AXISが訊く。

「いいと思う」

「珍しく即答ですね」

「うん。これは、たぶん迷わない」

 僕はゆっくり打ち込む。

 それ、かなり書き出しだと思います
 少なくとも、見出しじゃなくて本文の始まりです

 送る。

 返信は少し間があってから来た。

 よかったです
 見出しじゃなくて、本文って言ってもらえるの、やっぱり少しうれしいです

 それから、もう一通。

 あと、もう一つだけ
 もし嫌じゃなければ、一度だけ会ってもらえませんか

 そこで、僕はまた止まった。

「来ましたね」

 AXISが言う。

「来たね」

「どうしますか」

「今すぐは決められない」

 画面を見たまま、小さく息を吐く。

 会う。

 それは、今までのやり取りとは明らかに重さが違う。画面の向こうで本文を読んでいるのと、目の前に座った人を読むのとでは、たぶん負荷が全然違う。

 しかも相手は、僕の小説を読んで、配信を見て、こうして言葉を置いてきた人だ。

 向こうのほうが、少しだけ僕を知っている。

 その状態で会うのは、だいぶ落ち着かない。

「断りますか」

 AXISが訊く。

「それも違う気がする」

「では、保留ですか」

「うん。今日はそれしか無理」

 僕は慎重に返した。

 少し考えさせてください
 たぶん、会うなら会うで、ちゃんと考えたいです

 送信する。

 少しの沈黙のあと、返信が来た。

 ありがとうございます
 その返し方、少し安心しました

 その一文で、また少しだけ息が抜ける。

 急かされない。

 決めさせようとしない。

 そういう距離の取り方を、たぶんこの人は最後まで崩さないんだろうと思う。

     *

 メッセージ画面を閉じて、僕はメモ帳を開いた。

 いつものように、いきなり本文には行けない。近すぎるものは、一回自分の外に置かないと、だいたい扱えない。

 それもたぶん、僕の書き出し方の一部なんだと思う。

 カーソルを置いて、少しだけ考える。

 それから、一行だけ打った。

 最初の一行は、たぶんその人の逃げ方でできている。

 それだけ。

 うまい文でも何でもない。

 でも、今の自分には少し近かった。

「雑ですね」

 AXISが言う。

「今日はそれでいい」

「最近、その理論を多用していますね」

「便利だから」

「私みたいに」

「君ほどではないかな」

 部屋は静かだった。

 静かだけど、空っぽではない。

 書き出しは、たぶん弱さの出方なんだと思う。

 いきなり言い切れないこと。少しだけ保険を置くこと。真正面から始めるのを少し遅らせること。

 それをただの逃げと呼ぶには、たぶん少し雑すぎる。

 人によっては、それが入口になることもある。

 もし会うことになったら、たぶん最初に見るのはその人の顔じゃない。

 最初の一言の置き方なんだろうと思った。

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