エピローグ まだ、本文の途中

 終わった、と思うほど何かがきれいに終わることは、たぶんそんなに多くない。

 仕事は翌日に続くし、生活は普通に散らかるし、洗濯物はタイミングを選ばない。人間関係だって、分かったと思った次の日にまた少し分からなくなる。

 だからたぶん、物語みたいにきれいな終わり方を期待しすぎると、日常のほうが少し感じ悪くなる。

 そのかわり、少しだけ座りがよくなる日ならある。

 たぶん今は、そのくらいだった。

     *

 夜、原稿の前に座っていた。

 投稿用の新しい短編。最後までだいたい書けている。流れも悪くないし、会話もそこそこ生きている。直したいところはあるけれど、前みたいに全部を整えたくて止まる感じは、今日はそこまで強くなかった。

「珍しいですね」

 デスクトップ側のスピーカーから、AXISが言う。

「なにが」

「三十分ほど、同じ段落をいじっていません」

「観測が細かいな」

「事実です」

 モニターの中には、書きかけの本文と、その横に開いた雑なメモが並んでいる。

 最初から分かっていたわけじゃない。
 少しだけ、ここにいる感じ。
 まだ途中でいい。
 うまく言えない日は、うまく言えないままで置く。

 相変わらず、メモはだいぶ雑だ。

 でも、こういうのがないと始まらないし、最近はこういう雑さを前より嫌わなくなっていた。

「タイトルは」

 AXISが訊く。

「まだ」

「本文は書けているのに」

「その言い方ちょっと腹立つな」

「事実の確認です」

 タイトル欄には、まだ仮のまま何も入っていない。

 昔なら、その空白にちょっと焦っていたと思う。入口が決まらないことが、そのまま本文の不安定さに見えていたから。

 でも今日は、そこまでではなかった。

「先に投稿するのもありかもね」

 僕が言うと、AXISは少しだけ間を置いた。

「珍しい判断です」

「うん」

「タイトル未定で?」

「いや、さすがにそれは感じが悪いから付けるけど」

 少し笑ってから、僕は続ける。

「でも、前みたいに“完全に決まってからじゃないと出せない”って感じでもないかなって」

「途中でもいいと」

「便利なまとめ方だな」

「最近のあなた向きです」

 僕は少しだけ考えてから、タイトル欄に短く打ち込んだ。

 まだ、本文の途中

 それだけ。

 うまいタイトルなのかは分からない。強い題名でもないし、印象的かと言われると微妙かもしれない。

 でも、今の自分には少し近かった。

「雑ですね」

 AXISが言う。

「褒め言葉として受け取っておくよ」

「そこまでは言っていません」

「言ってなくてもいいんだよ」

 そのまま公開ボタンを押す。

 少しだけ、呼吸が止まる。

 でも、前みたいな息苦しさではなかった。ただ、いつも通り少しだけ緊張して、それで終わる。

「投稿完了です」

 AXISが言う。

「最近その仕事、楽しんでるでしょ」

「安定していますので」

     *

 公開して少ししてから、配信用ソフトを立ち上げた。

 今日は歌をやるつもりだった。路上に出るほどの気力はないけれど、部屋の中でなら一曲か二曲くらいならちょうどいい。

 モニターの中で、狸が待機画面で瞬きをしている。

 相変わらず、少し気の抜けた顔だ。

 でも最近は、その中に自分が隠れているというより、少し借りている感じに近くなっていた。

「本日の内容は」

 AXISが言う。

「歌と、ちょっとだけ雑談」

「現実逃避ではなく?」

「それも少しあるな」

「割合が高い」

「趣味ってだいたいそういうものでしょ」

 配信を始める。

 コメント欄にぽつぽつと挨拶が流れ始めた。

 こんばんは。
 きた。
 今日は歌?
 なんか少し機嫌よさそう。

「最後のやつ、だいぶ早いな」

 僕は笑ってマイクの前で姿勢を整える。

「こんばんは。今日は、そんなに長くはやらないです。たぶん二曲くらい」

 たぶん助かる
 断定しないの安心する
 いつものたぶん

「便利に使われてるな、そのへん」

 少し笑ってから、最初の曲を始める。

 大げさに感情を乗せるでもなく、うまくやろうと気負うでもなく、ただ今日は少しだけ、そのまま歌う。

 サビの入りで、ほんの少しだけ息が揺れた。

 昔なら、そこが気になったと思う。今もゼロではない。でも、その揺れをすぐ消したい感じは、前より少し薄かった。

 歌い終わると、コメントが流れる。

 今日ちょっと近い。
 息ある感じがする。
 なんかいい意味で整いすぎてない。

「最後のやつ、褒めてる?」

 かなり
 褒めてる
 好きなやつ

「なら、よかった」

 水を飲んで、少しだけ黙る。

 それから、なんとなく、そのまま口を開いた。

「最近ちょっと思うんですけど」

 コメント欄が少しだけゆっくりになる。

「ちゃんとしてるとか、整ってるとか、そういうのって便利なんですよね」

 うん
 わかる
 便利ではある

「でも、それだけだと少し遠くなる時もあるし。逆に、少し揺れてるとか、途中っぽいとか、うまく言えてないとか、そういうところのほうが、近く感じることもあるじゃないですか」

 少しだけ間を置く。

「で、たぶん人って、そっちをあんまり見せたがらないんですけど」

 コメントが静かに流れる。

 はい
 見せたくない
 わかる

「でも、見せないままでも苦しい時あるので」

 そこで、少しだけ笑う。

「まあ、そのへんはほどほどでいいのかもなって、最近ちょっと思ってます」

 ほどほど大事
 わかる
 今夜ちょうどよい

「ちょうどよいなら助かります」

 もう一曲だけ歌う。

 今度は少し古いJ-POPだった。昔から好きで、たまに路上でもやる曲。派手ではないけれど、歌い終わったあとに少しだけ空気が残るタイプの歌だ。

 曲が終わると、しばらくコメント欄が静かだった。

 それから、一つだけ流れる。

 まだ題名なくていい夜もありますよね

 僕は少しだけ目を止めて、それから笑った。

「うん」

 短く、そう返す。

「たぶん、そういう夜もあります」

 誰のコメントかは、確認しなかった。

 確認しなくても、たぶんよかった。

     *

 配信を閉じる。

 部屋が静かに戻る。

 でも、その静けさは前より少しだけ薄かった。さっきまで声があった場所が、完全には空にならない感じがする。

「本日の総評」

 AXISが言う。

「なに」

「少しだけ、整えすぎませんでしたね」

「そうかも」

「珍しいです」

「毎回そう言うな」

「毎回ではありません」

 僕は椅子にもたれて、少しだけ天井を見る。

「でもまあ」

「はい」

「前よりは、途中のままでいるの、そんなに嫌じゃないかも」

「健全です」

「便利な言葉だな」

「最近のあなたに合わせています」

 スマホを見る。

 通知は一件だけ来ていた。

 例のアカウントからだった。

 今夜の配信、少しよかったです
 まだ題名じゃなくてもいい気がしました

 それだけ。

 それだけで十分だった。

 僕はしばらくその文を見てから、短く返す。

 たぶん、今はそれでいいんだと思います

 送信する。

 既読がつく。

 返信は来なかった。

 でも、それでよかった。

     *

 メモ帳を開く。

 もう今日は書かなくてもいい気もした。でも、何も置かないまま閉じるのも、少しだけ違う気がした。

 だから、いつものように一行だけ打つ。

 まだ題名じゃなくても、本文は続く。

 それだけ。

 うまい文でも何でもない。

 でも、今の自分には少し近かった。

「雑ですね」

 AXISが言う。

「今日はそれでいい」

「最近、その理論を多用していますね」

「便利だから」

「私みたいに」

「君ほどではないかな」

 カーソルが静かに点滅している。

 その点滅を見ながら、僕は少しだけ笑う。

 たぶん僕は、これからも人に見出しをつけたくなるし、自分のことも整えたくなるし、途中のままでいるのが落ち着かない夜もあるんだと思う。

 でも、前より少しだけ、それを急がなくてよくなった。

 まだ題名にならない人がいる。

 まだ題名にならなくていい夜がある。

 そしてたぶん、そのあいだにも、本文はちゃんと続いている。

 部屋は静かだった。

 静かだけど、空っぽではなかった。

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